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1928.3.10
渥美清誕生 東京市下谷区車坂町(上野7丁目)生 本名:田所康雄
車坂の町名はこの地の近くに寛永寺本坊の車坂門があったことに因む。
1931.9.13
山田洋次誕生 大阪府生
1936
小学校3年生の時板橋区清水町(現在の板橋区蓮沼町と北区赤羽西付近の両区界)に転居
貧困生活 欠食児童 天真爛漫
松竹大船撮影所開所
世相:
福山隆一の漫画「江戸っ子健ちゃん」(フクちゃんの前身)連載開始(東京朝日新聞)
江戸川乱歩「怪人二十面相」連載開始(少年倶楽部)
キューピー人形流行 アルマイトの弁当箱普及 結核(亡国病)死因の第一位に
警視庁「赤バイ」から「白バイ」に
流行歌:
うちの女房にゃ髭がある
1940
東京市立志村第一尋常小学校(現在の東京都板橋区立志村第一小学校)卒業
がんばれ ふんばれ されどいばるな(卒業の寄せ書きに書いた言葉)
東京市立志村尋常高等小学校(現在の東京都板橋区立志村小学校)入学
1941.6.29
倍賞千恵子誕生 東京市豊島区西巣鴨生
世相:
太平洋戦争開戦
小学校「国民学校」と改称
防空頭巾・もんぺ・ゲートル・非常時服装
流行語:
進め!一億火の玉だ
1942
東京市立志村国民学校(=東京市立志村尋常高等小学校)卒業
世相:
ミッドウェ−海戦
労働者の欠勤・怠業・集団暴行・徴用工の逃走多発
流行語:
欲しがりません勝つまでは 月月火水木金金
「いつもニコニコしていた近所のおじさんが、戦時中、モノが統制されるようになると、
急に人格が一変してね。憲兵のようになっちゃったの。
ところが、敗戦となると、仕返しされるのを恐れてか、突然ペコペコしてへつらうんだよね。
教師も、国のために死んでいけといっていたのが、コロっと変わって、
教科書にスミを塗れというんだ。
いやあ、十代の少年にとって、敗戦時のこの価値観の大転換はショックだったね。
個人的に、長かった『昭和』を振り返って一番忘れられないのは、
父、兄、母と肉親に次々と死に別れたこと。
昭和に生まれて、昭和とともに生きてきたけど、
最後に天涯孤独、たった一人になってしまった。さびしいねえ」
この頃は、家にも寄り付かず、外で職を転々としており、上野あたりで、的屋のさくらなどしていたらしい。
啖呵売を覚えたのも、この頃でしょう。
1946.11.22
倍賞千恵子の妹・倍賞美津子誕生 茨城県真壁郡大国生(疎開先)生
1947
兄・健一郎(オリエンタル酵母工業工員・労働組合初代委員長)死去
1950
山田洋次、東京大学入学 映画研究会に所属
1951
浅草「百万弗劇場」専属コメディアン(芸名・渥美清)
翌年、谷幹一と出会う。
1953
浅草「フランス座」 朋友(ポンユー)・関敬六と出会う。
「おーっす! おい、アンちゃん、学生かい、アルバイトか?」
関敬六「何いってんだよ、役で学生服着てるんだ、先輩だぞ!」
「お、すまなかったな〜」
同じ年ということもあって、ふたりはすぐ仲良くなった。
西川ひろみ(フランス座の踊り子)「渥美のお兄さん、お疲れ様でした」
「そんな言い方はいやだねえ 渥美やんでいいよ」
1954
結核手術のため埼玉県春日部市朝倉病院に入院 右肺全摘出手術
病棟でも「啖呵売」 患者たち大爆笑
「いつか芝居でこれをやりたいんだよ」
山田洋次、東京大学卒業 松竹入社
1956
退院
フランス座に復帰
父・友次郎(元新聞記者)死去
母一人子一人となる。
1957
テレビドラマ「すいれん夫人とバラ娘」(朝丘雪路と共演)でテレビドラマ初出演
「スタジオの床が御殿みたいにピカピカ光っていてね。
慌ててクツを脱いだら、雪路ちゃんが『履いたままでいいのよ』だって。
そのことだけは忘れられないね」
(キネマ旬報 No.1201「評伝・渥美清」石坂昌三より)
倍賞千恵子、豊島区立紅葉中学校卒業後、松竹音楽舞踊学校入学
1958
「スリーポケッツ」(関敬六・谷幹一)結成(数カ月で解散)
「俺、お前たちと一緒に歌ったり足上げたりしてるの嫌だよっ」
「仕事は別々でも、俺たちは死ぬまで兄弟でいよう」
1960
賠償千恵子、松竹音楽舞踊学校を首席で卒業
松竹歌劇団(SKD)へ入団
1961
NHK「夢であいましょう」(黒柳徹子と共演)レギュラー出演
賠償千恵子、松竹にスカウトされ映画「斑女」でデビュー
山田洋次、映画「二階の他人」で監督デビュー
「〜無事、これ名馬
どんなに速く走ることができても、足を折って途中で走れなくなったらダメ。
ゆっくりでも最後まで走るのが名馬なんだよ」
1961
映画「水溜り」(倍賞千恵子と初共演)
1962
映画「あいつばかりが何故もてる」で初の主演
賠償千恵子、「下町の太陽」で歌手デビュー レコード大賞新人賞受賞
1963
倍賞千恵子、映画「下町の太陽」に出演
山田洋次監督と出会う。
1964
映画「馬鹿まるだし」(主演:ハナ肇)に出演(一日だけの撮影)
山田洋次監督と出会う。
「ばっくれ野郎 この次は長いのでひとつ お疲れ様」
1967
白百合女子短大を卒業して間もない正子さんにプロポーズ
彼女の父親が渥美清のファンで彼女が中学生の頃すでに知り合っていた。
1968
テレビドラマ「男はつらいよ」
1969
正子さんと結婚(披露宴はホテルオークラ)
「お会いできるときは、ほとんど家族といっしょ。2人きりのデートはこの10年間にかぞえるほどしかしておりません。
2人で歩くときは手をにぎりあうのがやっとです。その手はあたたかく、渥美ちゃんの心そのもののようでした。
ブラウン管から受ける感じそのまま。スモッグだらけのごみごみした中にいても心に夢を忘れない人…
それが渥美ちゃんだと、私は思っています」
(「女性自身」昭和44年3月24日号から)
映画「男はつらいよ」第1作
「さあ、あー、はい、おばちゃんごめんよ、はい、ごめんよ
にいさん変わろう
いいから貸してみろい、ほら、よいしょ
さあ、爺ちゃんも、婆ちゃんも、調子合わして叩いてくれよう!
ここは柴又題経寺とくらい、
チョイチョイチョイヤサッサ、チョイヤサッサ、
チョイチョイチョイヤサッサ、チョイヤサッサ・・・」
倍賞千恵子、芸術選奨文部大臣賞受賞
1970
母・多津(元教員で宇都宮の高等女学校を出たという)死去
1971
長男・健太郎誕生(兄・健一郎の「健」の字をとって健太郎)
1972
芸術選奨文部大臣賞受賞
小学校時代の悪ガキ達(原田操さんら)とお祝い
3.26
森川信(おいちゃん)死去(60歳)
1973
長女・幸恵誕生
1983
「男はつらいよ」連続30作主演でギネスブックに登録
1989
浅草芸能大賞受賞(関敬六:奨励賞受賞)
浅草時代の仲間達(谷幹一・玉川みどり・西川ひろみさんら)とお祝い
「お前はね、決して芸はうまくないけど、人を喜ばせるものを持ってるな〜
お前はね、本当はいい役者なのかもしれないよ」
1991
肝臓癌の告知を受ける。
1993.3.16
笠智衆(御前様)死去(88歳)
1995
渥美清こもろ寅さん会館(長野県小諸市懐古園近く)オープン
遺作「男はつらいよ・寅次郎紅の花」公開
1996.8.4
転移性肺癌のため死去(68歳)
東京都新宿区・源慶寺にて永眠
国民栄誉賞受賞(役者では長谷川一夫についで2人目)
「本当に皆様ご苦労様でした、ねえ」
参考文献:
「拝啓渥美清様」読売新聞社会部(中央公論新社)
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