英雄・那須与一
那須与一は那須資高の11男として永万元年(1165)に生まれました。母親については、はっきりと分かっておらず、正室の子ではなかったようだということだけが、今日、判明しています。
那須与一の父・那須資高は、初めて那須氏を称した人で、元は那須・須藤氏でした。この那須・須藤氏は、源氏の家人であった相模の山内首藤氏の一族でした。
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大館祉(栃木県黒羽町余瀬)
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須藤資高は父の代から移り住んでいたこの下野の国で次第に勢力を拡大していました。そして名前を那須氏に改め、栃木県黒羽町の余瀬というところに大館と呼ばれる本拠地を置いたといわれています。那須与一は、幼少時代この大館ではなく、その少し離れたところにある高館(栃木県黒羽町)といわれる場所で過ごしたといわれます。正室の子でなかった与一を父・資高は正室の子とは離して住まわせたことが想像できます。
そして、治承四年(1180)の源頼朝の出兵の時、那須与一の11人いる兄弟の内、長男からの9人は当時圧倒的勢力を誇っていた平氏側に参陣していた。残った十郎為隆と与一が源氏側に参陣したのです。
与一は源義経とともに合戦に挑み、一ノ谷の合戦では鵯越での坂下しにも加わっていたと推測されています。
多くの武功をあげた与一ですが、今でもよく知られているのは屋島の合戦で約90m離れた海上の扇を射落としたことでしょう。
その時、与一は20歳位であったといわれています。
しかし、これほどまでに晴れがましい武功をあげたにも関わらず、その後の与一に関する資料が殆どないのはなぜなのでしょう。
続く
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