神のお使い
 

熱い昼日中、いつものように不良おじさん達がたむろしているチェンマイの飯屋の中に、「神の使い」が、突如、やってきた。神のつかいといっても、背中に羽が生えた天使ではない。まだ若き日本の女性である。彼女は神の使い、と言うより、キリストの使徒だった。

その彼女が飯屋の中で、居並ぶ不良おじさんの頭上から、キリストと神の宣教を始めた。まったくもって、物怖じするところが゛一つもないどころか、逆におじさん達は彼女の、あなたは神の存在について、どう思われますか、という詰問に、小さくなって、うつむいている。そこにいるおじさん達は、他人に害を及ぼす悪党ではないが、快楽と言う罪を自ら犯している事を自認している、快楽主義者達である。あるいは日がな一日、男盛りをぼけっと過ごしている怠惰の罪を犯している罪人でもある。そのために、誰でも、後ろめたさをもっている。その証拠に、困ったように苦笑して、うつむいたまま、小娘に反駁できなくて、嵐が過ぎ去るのをじっと待っている。そうなると、自分の優位を悟ったのか、小娘の舌鋒はますます鋭くなり、もはや、塩をかけられたナメクジ状態と化しているおじさん達の上に、追い打ちをかけるように神の王国を説くのである。

「あのね、ここはタイなんだから、仏教の国なんだから、そう、西洋の神様ばっかり、言ったって、しょうがないでしょう」

ようやく、端にいたおじさんから、反抗の狼煙が一つ上がったのである。しかし、そんなものに小娘はひるまない。何せ、この熱い盛りのチェンマイにまで、布教に来ている小娘なのである。

「西洋の神様ではありません、世界中の人達から信仰を得ている神様です」

 と簡単にいなしたのである。おじさんは、少し黙って、仕切直しをするために、塩を一口、口に含んだのではなく、側にあったビールを少し口に運んで、興奮して乾いてきた喉の奥を湿らしたのである。

「いや、俺達、日本にだって、神様はいると、言いたかったんだよ」

「どこにいますか」

「あなただって、初もうでに神社に行ったことがあるでしょう」

「あれは、人が作ったものです」

ここで、ようやく、おじさんは、敵の弱点をつかみ取ったごとく、声の調子を変えたのである。

「人がつくったもの?それじゃ、キリストの教会だって、同じじゃないか」

「いえ、違います、教会は神様のつくったものです」

「そういうことをいうな、それがキリスト教みたいな一神教の悪いところなんだよ、ここは懐の深い仏教国だから、そうやって、あんたも布教できるんだろ、馬鹿なことをいっちゃいけないよ」

 おじさんが声の調子を変えたというのは、正確に言うと、ほぼ、怒鳴り声に近かったのである。だから、神の使いが退散したのは、おじさんの意見や、高潔な姿勢におそれをなしたのではなく、昼からビールを飲んで、赤い顔をして、突如とした大声を張り上げた事に、身の危険を感じて退散したのである。それを何を勘違いしたか、そのおじさんは子羊のように黙っていた他のおじさん達を見回して、なんだ、こいつ等、日頃、偉そうな事ばかり言ってやがって、あのくらいの小娘になめられやがって、見下げ果てた奴等だ、この今の俺を見ただろうってんだ、と鼻の穴を膨らませ、飯屋の女に「ビール冷たい奴、もう一本」と自慢げに声を張らせたのである。ちなみに、その、おじさんとは、僕の事である。

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