和尚ラジニーシ

インドのプーナという地名を聞くと、すぐにラジニーシと連想する人は、もはや、そんなに若くはない人たちだと思う。もう、二十年以上も前になるが、僕がはじめて、彼の邦訳の本を杉並の高円寺の区の図書館で偶然に手に取ったとき、僕はちょっと興奮したものだ。その本は非情に刺激的だった。それを借り出して、四畳半のアパートの一室に持ち帰っても、僕の興奮はまだ収まっていなかった。「存在の詩」という題名の本だった。非常に解りやすい言葉で、このインド人は、生の開放をうたっていた、というより、こちらの度肝をぬくように、さまざまの階層の質問者にたいして、答えを出していた。一体全体、一つの迷った生の問いに対して、明確な答えを出すこと事態が、近代ではスキャンダラスな出来事なのに、このインド人は、すらすらと、難問に答えているように見えた。だから、このインド人を、スキャンダラスな教祖として、世の中は、「フリーセックス」の教祖と呼んでいた。そして、そういわれるような要素を含んだ性に対する肯定の教義をこのインド人はしゃべっていた。しかし、それは教義であって、実際に、フリーセックスの技術的な教本をこのインド人が、書いていたのかどうかは、僕は信者でないのでわからない。とにかく、人は本来は自由なのだ、という考え方はその当時珍しくもないものの、僕達がすぐに連想する従来の肉体を苛める修行の変わりに、セックスだったり、喜怒哀楽を増幅させて、逆に心の静ひつを勝ち取るような、いわば快楽主義からの悟りへの道を説くこのインド人は、充分に僕に刺激的だった。そのことは、当時僕が東京で二十代を過ごしていた事で、ますます、そう思えていた節がある。地方の町から大都会に移って、定職もなく数年を過ごしていた僕は、組織の庇護を受ける機会に恵まれず、今でいうフリーター的なことをやっていた。そういう都会生活に、僕の神経は結構耐え続けていた。だが、無意識にそうした神経の緊張の疲労という奴は、まるで、化学物質の塵のように、人の心のどこかに消えずにたまリ続けていくものなのかもしれない。

圧倒的な人間の数。地下鉄サリン事件の被害者に、地下鉄という言葉を聞いただけで、体が震えだしてくるという後遺症を持ってしまった方がいるが、その事件がおきなくても、地下のトンネルを一つの鉄の箱の中にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた人間の塊の中に、自分が毎日押し込まれて、疾走しているということは、本当は人をおかしくするほどに異常なことなのだ。初めてそんな地下鉄に乗った時に、人間の神経にどんな圧迫が加えられているのか怯えた記憶が、僕だけでなく、多くの人が経験していることだろう。たぶん、そのことに耐えられた多くの人は、タフな神経を持っているばかりでなく、神経に物事をあまり見させないように、目をつぶる事を覚えさせる道を選ばせたのだろう。たとえば、屠殺場に行くトラックの荷台に押し込まれた牛や豚の群れに遭遇したとき、思わず目を他のものにそらすように。

僕がそんなことを思ったのは、インドのラジャスタンの砂漠の中にあるジャイサルメールという町で、たまたま、食事でいっしょになった日本の学生の女の人から、上京して、一年が経っても、下痢状態が直らず、痩せていったけれど、それがインドに来て直っちゃった、という話を聞いたからだ。その、女子大生など、僕から見れば、何ら過不足なく都会での学生生活をエンジョイしているようにしか見えないタイプのお嬢さんにしか見えないのに、(いわば、その知識にあっパッパなところが多分にあり、オジサンはついていけなかった)都会はやはりこんなお嬢さんに対しても強い緊張を強いているのだと、思った。話はそれるが、原宿などで、見られる若い女の娘達の、服飾の既成の世界を簡単に無視した、はちゃめちゃな服装は、彼女達の都会から押しつぶされそうとする若い感性や肉体の巻き返しなのであって、現代の娘による個性の発露などという生易しいものでないのだ、と、おいちゃんは思っているのである。(そんなことはみんな知っているって?)

実を言うと、僕が、ラジニーシに多大な関心を抱いたのは、都会の中の生活の場に置いてだった。都会の緊張に対して、ラジニーシの教義は原始的な魅力にあふれ、都会の無機的なシステムが住民に押し付けているさまざまな物に対して、肉体の持つ一つ一つのリズムを掘り起こさせるような、そんな意味が言葉に満ちていた。僕にとっては、都会に置いてはそのインド人の言葉は有効だったのである。

それは僕ばかりでなく、高円寺に住んでいた当時、僕が良く行くジャズをかけるスナックの経営者と話しているときにも、ラジニーシの名前が僕達の間に出てきた。彼の話によると、彼は、この店の運転資金のために、昼間、裸になって、美術学校などのモデルをやっているそうなのだが、そのとき、彼の裸体を描いている者の中に、首に同じペンダントをぶら下げた人達をよくみるのだそうだ。そのペンダントのなかに、ラジニーシの肖像が入っているらしく、そのペンダントをつけている彼等はみな、ラジニーシの信者だ、と、いうのである。ちなみに、そのスナックの店主は舞踏派のメンバーで、人前で裸になることは慣れている純粋な心根の痩身の男だった。だから、当時、そのインド人に傾倒した日本人は結構いたのである。

しかし、僕が食いぱぐれて故郷に戻ったときに、僕が都会で受けた緊張とは別の圧迫が僕を襲ってきた。それは、眠気を催すほどに、退屈な種類の圧迫だった。僕の都会の中で緊張を保っていた意思が、故郷が張りめぐらしている網の中に捕らえられ、時を掛けてなし崩しに弱っていくような、そんな真綿で締め付けられるような圧迫だった。そのときも、僕は地方の図書館にもおいてあったラジニーシの本を借りてきて、読んだことがあるが、少なくても、地方に住むことによって、都会の神経症的な不安から開放された僕は、もはや、彼から、感銘を受ける言葉を探せなかった。それは無論、僕の理解の仕方が最初から生半可なものだった、ということだろうが、それにしても、僕の体験の中で、時が経ってみたら、感想が大分違ったものになったという事はよくあるのに、居る場所を変えたら、感想が大きく違ってしまったというのは、そのインド人が最初だった。おまけに、その地方の図書館には、アメリカのオレゴン州に渡ったラジニーシのアシュラム王国の内部分裂のことが事細かに書いてある本までもがおいてあった。それは彼の元高弟によってかかれた本で、ラジニーシへの告発本にもなっており、ラジネーシのスキャンダラスな一面が事こまかにかかれていた。なかでも、彼の無類のローレスロイス好きは公然たる事実のようであって、その本を読み終えたときは、ちょっと、興ざめしたような気持ちだった。だからといって、彼の教義がまったく消えたわけではない。彼によって、神経症的な苦痛から逃れられた人も居るのだろうし、人生に光明を見た人もいるだろう。それに、日本の音楽家や、まったくの自然派になって生活を営んでいる優れた人達も彼のアシュラムを訪れており、彼がまだ生きていた、七十年代のピーク時とは比べられないにしても、そのインド人の本がいまだに影響を国を越えて、世界の誰かに与えていることは間違いないのだ。たいして彼についてしりもしない僕が、彼の教義をうんぬんする資格はないのだが、僕が偶然にもプーナという町に列車から早朝に降り立ち、その日の夜にゴアに向かうバスに乗り込むまでの間、僕はプーナという町に、一日も満たなく居たことがある。僕は何度か彼の本を読んでいたにもかかわらず、その街がそのインド人の本拠地だということを知らずに、宿のベッドの上でごろごろして、ネパールの近くの町から、一気に鉄道で数日をかけてやってきたその町で疲労の多い旅の休息をしていた。そして、駅前で見かけた若い西洋人をみて、こんな町に若い西洋人が一人で荷も持たずにうろついているのはどうもおかしいな、と、そんなふうに思ったに過ぎなかったくせに、それだけの小さな縁だけを頼りに、僕はこのことを書いてしまった。どうか、ラジニーシのファンの方はこんな僕を許して下され。それから、ちょうど、僕がそこを訪れた年に、ラジニーシはこの世から去ったことを、カルカッタに帰ってから、僕は知った。

 

                                     2000.8.23

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