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このページでは、その都度思いついたことについて、作者の「超」主観的な観点からざっくばらんに意見を述べてみたいと思います。(別に「世の中に物申す!」みたいな気合の入ったものではありません。適当に読み流して下さい^^。)

■2616gの重み

父親になった。ほんの数日前まで母親のお腹の中に居て実態がわからなかった命が突然形になって目の前に現れた。我が子誕生を聞いて、両親がやってきたり、子供の名前を決めたりお祝いに駆けつけてくれた友人にお礼を言ったりしてバタバタと慌ただしく時間が過ぎ数日が過ぎた。その間我が子は殆どの間ガラスを隔てた向こう側の世界にいて、時々身体を動かしながらベッドの上に横たわってる。父親になったという現実は理解しているが、やはり実感が湧かない。母親は自分のお腹の中で10ヶ月近くその命を育み、とてつもなく長い時間痛みに耐えて産み落としたのだから実感が湧くどころの騒ぎではないだろう。それに対し父親はいったいいつ実感が湧くのだろう?そう思っていたが、初めて我が子を抱きその小ささ、軽さに驚き、全身の力を振り絞るように顔を真っ赤にして泣いている姿を見て、初めて自分の手の中にあるたった2616gの命の重さを実感した。この物体そのものが命なのだ。自分の中に今まであったちっぽけな価値観が全部吹っ飛んだ感じだ。全ての優先順位が変わるというのは本当だった。今、この手の中で泣いているこの子を自分が守らなければならない。その使命感が物凄い速さで自分の身体の中を走りぬけていった。よく出来ている人形のような顔や手足を見ていると生命の凄さを感じる。そして、この命を産み落とした母親には尊敬の念すら感じる。親になるということはこういう事を言うのだろうか?

今、この瞬間に感じた気持ちをこの先もずっと自分は持ち続けることができるのだろうか?この先自分はこの子の親として何をすべきで何をしてあげらるのだろう?そして、人生の伴侶ある妻にどんな幸せを与えることができるのだろう?そんな思いが次々と湧き上がってくる。

そう考える思考を与えることが、子供が一番最初に与えてくれることなのかもしれない。果たしてこの先、我が子は自分にどんなことを与え、教えてくれるのだろう?楽しみであると同時に大きな不安もある。でも、確実に思うのは自分の人生の道幅がうんと広がったような気がする、ということ。

やっぱりちょっとくさいし、使い古された言葉だけど、産まれてきた我が子にこの言葉を贈りたいと思う。

「産まれて来てくれてありがとう。」

そして妻には、

「産んでくれてありがとう。」
2005.7.4

■国道ライダー

何年か前から北海道で耳にするようになってきた言葉です。ただでさえ少なくなってきた夏の北海道をツーリングするライダー達ですが、その中でもかなりの台数が国道でしか見かけなくなっているそうです。これは、ツーリングガイドブックの存在もさることながら、普段からライダーが地図を見るという事をしなくなっているからだと言います。

こっちの道に行ったらどこに出るんだろうとか、この道の方が面白そうだな等と考えて色々遠回りするのがツーリングの醍醐味だと私は個人的に思っているのですが、どうやら今はそうではなくなって来ているようです。目的地に行くまでの最短かつ最も面倒臭くないルートを選ぶのが主流の様です。

翻って、昨今のカーナビ普及率。確かにカーナビは便利です。見知らぬ場所に行ってもほぼ確実に目的地まで導いてくれます。地図を何冊も持ったり、自分が今居る場所がわからなくなり一生懸命ページをめくったりする煩わしさから一気に開放してくれます。ただ、このおかげで地図上に五万と散らばっている素晴らしい無名の道達が、まるでそこにはもう存在しないかのように消し去られて行っています。ナビゲーション精度を上げる為に、選ばれる道は国道やそれに準じる道ばかり、殆どの車が皆同じように道路上に引かれた線をたどってのそのそ動いているだけ。一本裏の県道はガラガラなのに、国道上には最新鋭の渋滞発生装置を積んだ車が溢れている。…何が楽しいんですかね。

AT車が市場の大多数を占め、車を運転する楽しみが奪われ。今度は道を選ぶ・迷う楽しみすら奪われていることにすら気づかず、引かれた線の上をたどって皆さんはどこへ行くのですかね?

そんな現実が、物質的にも精神的にも二輪の世界にも蔓延してきつつあるようです。ギアチェンジの要らないビックスクーターが市場に溢れ出し、オーディオやらカーナビやらを積んで街中を走り回り、屋根のない車に成り下がりつつあります。

何年か前、北海道で二人組みのライダーと同じ宿になりました。彼らはそれぞれにタンクの上に後生大事にカーナビを積んでいます。そして、お互いに自分のカーナビが示す走行距離の正確さを自慢しあっています。出発間際、それぞれが同じ目的地を入力し、お互いのナビゲーションが同じ方向を指しているのを確認し、二人揃って走り去って行きました。
彼らはいつの日かこの大きな矛盾に気がつくことがあるのでしょうか?何をしに北海道へやってきたのか、そして何が大事な事なのか。

地図を眺めているだけでワクワク出来る。そのためには地図を読みながらそこを走り、流れてゆく景色や道の幅を目に焼きつけ、自分の頭の中で地図を3D化できる基礎を作り上げる必要があるのに…。道路感や方向感覚は積極的に体感しないと身につかないのにね。

ちょっとくらいの寄り道が命取りになるような時代になってしまっているのでしょうか?自分で面白そうだと思って進んだ道が途中で行き止まりだったら、またもと来た道を戻ればいいだけです。それによってその日のうちに目的地に到着できなくたって、明日着けばいいじゃん。今日は手前の町で何か新しい出会い・発見があるかもしれない…。

そういうスタンスで自分の人生とも向き合って行きたいと思います。少なくとも自分はいつまでも、県道・道道・町道ライダーであり続けたいと思う今日この頃。
2005.5.7

■もったいない

最近思うことがあります。いったいどっちなんだろう?と。それは、「もったいない」と思うこと。
例えば、ここにお気に入りのモノがあるとします。それは服だったり電化製品だったりアクセサリーだったり人それぞれ対象があると思います。中には大変な思いをしてやっとの事で手に入れたモノもあるかもしれませんし、その後もう二度と手に入れられないモノかもしれません。で、質問。

・使うのがもったいない。
・使わないともったいない。

あなたはどっち派ですか?

私は以前まで、どちらかというと前者でした。お気に入りのモノはなかなか使えなくって、しまっておいて気が着くとその賞味期限が切れてしまい、何でこんなものを大事に取っておいたのだろうと思うことしばしば。結局日の目を見ずに捨てる羽目に・・・。
で、何年か前から考え方が後者に代わりました。折角のお気に入りなのだから使わないともったいない。そう思うようになりました。ボロボロになろうが何だろうが、とにかく自分の中で価値が認められるうちは使い倒す。そうして、使えなくなったときどうしても必要だったら、また新しいものを買いなおせば良いし、例えもう手に入らないモノだったとしてもその時にはきっと納得して捨てられる。そう思います。

この二つ、何が違うのか考えてみたら、前者は「所有し続ける事」が満足度の指標になり、後者は「所有し、使用する事」が満足度の指標となるわけで、個人的には後者の方が、より積極的な楽しみ方だと思います。誰しも気に入ったものはいつまでもキレイな状態で持っていたいと思うわけで、当然自分の中にも同じような気持ちはあります。

でも、やっぱり折角手に入れたものは、使ってナンボですよね。そして、くたくたになるまで使い倒し、自分の手や身体に馴染みきった頃、それが「愛着」というモノに代わって行くんだろうなと思います。
うん、やっぱり使わないと「もったいない」ですよね。
2005.3.13

■いちごずき

自他共に認めるいちご好きです。でも、いちご好きの中でも私はちょっと違う部類の様です。
そう、私は「いちご」好きなのではなくって、「いちご牛乳」好きなのです。コンデスミルクとかでは無くって絶対「牛乳」で無くてはならないのです。いちごは牛乳と混ざって初めてそのおいしさが際立つと思います。どんなに甘いいちごでもそのままではなくって牛乳の中で潰して砂糖をまぜ、いちご牛乳として味わうことに幸せを感じます。

なのでお菓子でも何でも「いちご牛乳」味が好きです。いちごポッキーの出現は子供の頃の私にとって衝撃的な出来事で、今なお、お菓子のチャンピオンの座に君臨し続けています。

この気持ち、賛同してくれる結構いると思うけどなぁ・・・。どう?
2005.3.13

地獄の苦しみ

以前から時々あったのですが最近になって、また背中やら首やらが痛み出し、朝なんか起き上がるのが辛いくらいになります。特に痛みの元が背骨から来るので椎間板ヘルニアをやった人間としては、あの恐怖再び。と、神経質になりつつも、痛み止めを飲んでやり過ごしていたのですが、いい加減我慢できなくなったのでついに病院に行ってきました。

「先生、背骨が痛くって痛くってたまらないんです。」
「どの辺?」
「こ、この辺です。肩甲骨の間くらい…」
「あぁ、ここ。」
「えぇ、そこです。」
「肩こりだね。」
「へ?」
「肩こり。」
「だって背骨が痛いんですよ。肩こりって…」
「君、姿勢悪いでしょ。こう、猫背になって頭が前に来て。そうそう。頭って結構重いんだよね。で、それを支えてる背中の筋肉が耐え切れなくなって痛くなるんだよ。旗だって真っ直ぐ持つより斜めにしたほうが支えるの辛そうだろ?肩甲骨の間が痛くなるのはその典型。運動しな。出来なかったら姿勢良くしてストレッチしてね。」
「はぁ…。」

…というわけで、最近ストレッチを始めたのですが、これが痛いのなんの。たかがストレッチ、されどストレッチ。今までカチカチになってた筋肉が引っ張られて悲鳴をあげているのです。特に背中と、おしりから太もも通って膝の裏。前屈なんかやったら殆ど身体は曲がってないのに足に激痛が走ります。前屈できないと腰に悪いって言うけどこりゃ当たり前ですわ。かたすぎです。

そんなわけで、今日もまた風呂あがりにひいひい言いながらひとり地獄の苦しみと闘うのでありました…^^。いつの日かこの苦しみから解放されるのだろうか…。
2005.2.12

ローカルルール?

背中の脂肪腫摘出の為、入院することになりました。あらためて過去に入院したことがあったかな〜と思い起こして見たら、かつて一度ツーリング先の北海道で入院した事を思い出しました。でも、その時は大部屋であったにも関わらず入院患者は自分ひとりだったのでまわりに気を使う必要もありませんでした。

ところが、今回はそうもいきません。ただでさえベッドの空きを大勢が待っている状態です。大部屋をひとりで等と言っている場合ではありません。で、今回入院した四人部屋で同室になった方々ですが、ひとりは既に一月以上そこにおられる部屋の主のおじいちゃん。そしてあとの二人も私と同じ日に入院した地元のおじいちゃん達です。

地元のおじいちゃん三人はあっという間に息投合。地元なまりの言葉で楽しそうに会話しています。他愛のない話題に聞いてるだけで私も自然と口元が緩んできます。病院で物騒な事件が起きてる昨今ですが、このおじいちゃん達と同室で良かったと思いました。

ただひとつだけ、困ったことがありました。それは、生活リズムが自分と会わないこと。病院は夜10時が消灯なのですが、面会時間の終わる夜の8時を過ぎる頃には我々の部屋だけとっとと部屋の明かりが消えてしまい、すぐに寝息が聞こえてきます。そして、朝は5時半ころからガサガサ音がし始め、6時を過ぎると電機髭剃りの音があちこちから…。いやはや、おじいちゃん達は病院でも自分の生活のリズムを崩さないのですね^^。

それにしても、退院を控えたおじいちゃんの嬉しそうな笑顔…。久しぶりに元気をもらいましたよ。
2004.12.22

ルールってなに?

存在を知らないルールを破り怒られました。今の会社に入ってからこういうことが良くあります。ルールを作った方から見れば非常識な事を繰り返してるようですが、ルールを知らされない側からしてみれば、本人が認識していないルールを笠にその行動や発言を後になって否定することこそ非常識だと思います。

ルールを守らないわけではなくルールを知らないのですから守りようがありません。しかもそのルール、後から知らされると「いつ出来たんだ?」とか「なんだそれ?」ということがよくあります。

とにかく、事あるごとに知らないルールを突きつけられて怒られるのには非常に理不尽さを感じます。そんなに守らせたいのなら、一番最初に周知徹底させるのが、ルールを作った人の義務だと思うんだけどなぁ…。知らない方も問題かも知れませんが、知らせないでルールだルールだと言い張る方ももっと問題だと思います。

て、いうかそんなものよりももっと別次元の問題がその裏にあると思うんですけどね。人としての「ルール」を守ってほしいと思います。まぁ、いつの時代も新参者はつらくあたられるのです。

みんな力を入れるベクトルがずれてない?
あ、俺の方がずれてるのかな?
2004.10.02

精神的老化現象

最近、体力落ちたな〜と思うことが増えました。
たまの飲み会で帰りが遅くなったりすると覿面で、翌日どころか2,3日は体調が戻りません。とにかく眠くって注意力が散漫になったりします。
特に最近は平均睡眠時間が今までに比べて減っているので積もり積もった疲れもあるのでしょうが、それでもやはり体力が落ちていると認識せざるを得ません。なので、普段の生活のリズムが崩れることを極端に嫌うようになって来ました。

で、ふと考えました。自分の中のこういう変化を認識することで、人は体力だけでなく精神的に歳を取っていくのかもしれないなぁと。
気が付けば35歳。まだまだ若いとは思っていても身体は正直な様です。それでもせめて精神だけは若さを保って行きたいと思います。精神的に老けてしまったら人間おしまいですから。

とは言え、身体は鍛えとかなきゃダメですよね。とりあえずは、もっとまじめに走らないと…。
2004.09.20

許されない行為

人を傷つけてしまいました。

どう考えても取り返しがつきません。
今更ながら、罪悪感で潰れてしまいそうです。
どこかへ逃げ出してしまいたいくらいです。

でも…傷つけられた相手が感じている辛さに比べれば私が感じている罪悪感なんて、独りよがりの感傷に過ぎません。辛くて逃げ出したいなんて虫が良すぎます。
だから、今私にできることは、自分の中に芽生えた罪悪感を正面から受け止めて苦しむことしかありません。でも、それすらも独りよがりの、人として最低の行為なのかもしれません。

それくらいひどい事をしてしまいました。

なんでそんなことをしてしまったのだろう?…と自分に問いただしてみると、多分、自分が傷つきたく無かったからなんだと思います。あまりに人として未熟で、そんな自分が情けなくてしかたありません。

今になっていくら思いなおしたところで、傷ついた人の心が癒せるはずもありませんし、許されるはずもありません。今はただ、何をどうすれば良いのか、どうすれば良かったのか、を考えて苦しみながら前に進んで行くしかないのかもしれません。

自分が招いた取り返しのつかない現実を、せめて自分が苦しむことで相手の傷が少しでも軽くなってくれるように祈りながら…。
2004.07.07

小さな願い…

人生には何度か、自分の意思や力とは全くかけ離れたところで、まるでなにか見えない力に押し流される様に自分を取り巻く環境が一変して行くことがあります。
過去に私も何度かそういう経験をしたことがあります。あれよあれよと訳のわからないうちに色々なことが変わって行く。自分も確かに何か行動しているんだけどそんな実感すら持てない。気が付いたら以前の状況とは大きく変わった状況に身を置いていた。そんな経験ありませんか?

今まさにそんな状況にあります。
ただし、ちょっと違うのは自分はその渦中にいない。ということ。
自分の環境はたいして変わらないのに周りの方の環境が物凄い勢いで変わって行っているのを眺めている。例えるならば永い葛藤の末、ついに意を決し、まさにこれから旅立とうとしている人の旅立ちの準備を横で見ている感じ。そこで、ふと気がつきました。そういえば自分はいつも見送られる側だったなぁと。

見送る方、見送られる方、共に等しく自分を取り巻く環境が変わってしまうことへの不安や切なさを抱きますが、見送られる方には未知の世界に向って行く分、希望や期待が同居していますが、見送る側にはそれがありません。

大きなうねりを目の前にし、例えようのない不安や切なさを受け止めて、初めてそのことに気づきました。でも、それと同時に、見送る側だけしか持てない気持ちもあるという事にも気がつきました。

それは、旅立ってゆく人の無事を、前途を、幸せを、願うという事。

見送るということは、環境の変化に対し受身でありながらも、ひとり未知の世界へと歩み出して行く人の背中にエールを送るという「心の行動」が出来るのだと知りました。

願わくば、その「心」が、見えなくなってゆく背中に届いて欲しいものです。

2004.06.01

浪費の季節?

最近物欲に歯止めがかかりません(笑)。なんだか気が付くとこの数ヶ月で結構な買い物をしています。小市民(死語)な私としてはこれだけたて続けにお金を使うと何故か罪悪感に駆られたりします^^。なので最近の買い物をざっと挙げて反省してみたいと思います。
まずは、206のマフラーに始まって、TDMのマフラー、ETCに前割り5万円、プリンターにiPodに、TDMのタイヤと206のタイヤ。…と、ざっとこんなもんですかね?あ、あと重量税も払ったな。
う〜ん、私にしてはこの短期間で大した出費です。…でも、ほとんどは必要経費なんですけどね。(と自分に言い訳してみたりする(^^ゞ)。
で、反省しながらふと考えてみたのですが、今年は運良く?車検がありませんでしたが、来年は206とTDMの両方とも車検です。しかもどちらも春(ToT)。これは偶然にしても、車やバイクを趣味にしているとシーズン始めの春はやっぱり何かとお金が掛かる季節なんですかねぇ。関係ないものもいっぱいあるけど^^。

でも、いい感じで物欲を満たしているので、ストレスも解消できてる…ような気がします。でもまぁ、とりあえずは欲しいものはひと通り揃ったので、そろそろ大人しくしようと思います。
…あ、でももうすぐボーナスだ。物欲ウェイティングリストを確認しなくては。
2004.05.17

自分についたウソ

基本や規則に忠実か?自分の感性に忠実か?前者は間違いは無いけど感動もない。後者は失敗や衝突も多いけど自分にウソがないと思う。社会生活を営む上で最低限のルールを守るのは必要なことだけれど、他人に迷惑がかからないのなら自分の感性に忠実でありたいと思います。たとえ、それによってルールを破ることになったとしても、自分にウソをつきたくないから。
2004.03.15

どっち?

たくさんの小さな喜びとたったひとつの大きな喜び。
2004.02.28

■ヒトノココロ

今まで自分の頭の中にもココロの中にも全く存在の無かったものがある日突然現れて、あっという間に自分の中を占め始めました。でもそれがとってもつかみ所が無くってどうやって自分の中で処理すれば良いのか解らず右往左往しているうちに、また突然消えていってしまいました。
元々存在の無かったものだからと思う気持ちと、一度その存在を認識してしまった以上、突然消えてしまうのは耐えられないという気持ちが同居した状況にあります。ヒトノココロは単純であり、その一方でそれほど単純でもないみたいです。
2004.02.22

■自分時間

自分の中に流れる生活のリズムを重要視します。自分の意思の及ばないところで自分の行動が制限されるのがとってもキライです。こと、「旅」というステージに対して、私が選んだ移動手段が「バイク」であったのは、この二点が満たせるからだとあらためて思いました。当然、二次的な理由付けとして、単純にバイクが好きだったり、金銭的な理由があると思いますが、やはり根っこにあるのはこの理由が大きいと思います。

国内外を問わず、初めて訪れる土地等では、それこそツアーにでも参加すれば、何の不安も苦労もなくその土地の見所や名物などを見たり食べたりして回れますが、私にとってそんなことはちいとも重要ではありません。自らの意思で行きたいところへ行き、見たいものを見る、それによって絶対見ておくべき有名な景色が見れなかったとしても、それは自分にとって重要ではありません。
地図を見て、迷いながらたどり着いた、何の見所もない町に何かを感じ、気に入ればそこに滞在してみる。そこで出会った人に魅力を感じれば話しかけてみる。そんな単純なことが出来ない旅など旅ではありません。自分の中に流れている自分の時間を感じながら気ままに旅してみる。そんなことが出来る自分にとっての大切な旅の道具・相棒がバイクである。しばらく乗れなかった事もあり、ふとそんなことを考えてみました。

毎年バカみたいに夏になると北海道を目指すのは、そんな旅をさせてくれるのが北海道という土地であり、そこで待ってくれている人たちだからでしょうか?あの土地に、そして私が関わって心地よいと感じる人々の中に流れる時間がどこか私のそれと重なる部分があるから、無意識のうちにそれにふれて日常に流され忘れかけている自分の時間を取り戻しに行っているのかもしれません。
自分の中に流れる自分だけの時間を感じながら毎日を過ごせたらそれは幸せだと思うけど、現実はそうも行かないので、どうしたらそんな時間を感じながら日々を過ごせるかな〜と、今回の事をきっかけに、ふと思うことが多くなりました。その答えを探しながら人は一生を過ごして行くのだろうか?などとちょっと哲学的な事を考えてみたりもします。

自分のリズム、「自分時間」を見失わないよう、これからも時々は相棒と共に旅に出ようと思います。
2004.01.17

■新年の抱負

バタバタと慌ただしい年の瀬を乗り越え、新年を迎えました。気持ちを新たに今年一年、また色々な事にチャレンジして行きたいと思います。・・・てな感じで新年の抱負を毎年話したり聞いたりしますが、改めて考えてみました。そもそも一年という単位なんて人間が勝手に考え出したもので、(まあ、自然の摂理にならって作り出したものではあるけれど)、12月31日から1月1日になる瞬間も本当のことを言えば、その前の日と現象的には何ら変わらないわけで、人間が勝手に特別な瞬間にしているわけです。そして、この勝手に決めた一年という一つの単位が終了し、新たな単位に突入する。その瞬間、さっきまでがリセットされたかのような感覚で「気分も新たに」なんて言うわけです。ホント勝手なもんです。
でも、別にそれが悪いわけでもなんでもなくって、そういう気持ちの切り替えはむしろ物事を良い方向に繋げてくれるのではないかと思います。個人的にはこの気持ちの切り替え、大賛成です。なので、私が思うのは、何も一年最後の日と最初の日だけを特別に思わなくっても、もっといっぱい特別な日を作っても良いのではなかろうか?ということ。究極は365日毎日を特別な日にしてみるのはどうだろう?毎日毎日新鮮な気持ちで前向きに過ごして行けるかもしれない。毎日が特別な日!って素晴らしくありません?
・・・でも、毎日特別だったらそれが当たり前になって全然特別じゃなくなりますね。結局その中からもっと特別な日が出てきて、その日がいつもと違う日になるわけで・・・結局ふりだしに戻ってしまうので、だったら今のままでOKってことですかね。

・・・うん、そうですね、きっと。じゃ、そういうわけで、気分も新たに今年も頑張るとしますかね。でも、まぁ、願わくば、気持ちの持ち方として、毎日毎日を特別な日として過ごして行きたいものです。
2004.01.01

■継続は力なり?

日記にも書いた通り、HPを立ち上げて一年が経ちました。わずか一年ですが日記を振り返ってみればそれなりにいろんな事があったようです。今まで自分の生活の記録をつけることなんてしたことがなかったのでとっても不思議な感覚です。ざっと読み返して見ると、今までだったらきっと記憶の彼方に飛んでってしまってるだろうな〜という出来事も、こうして記録に残っていると何だがとっても重要なことの様に思えるから不思議ですね。このコラムなんかもいつまで続くか自分でも確信がもてないまま書いてきたのですが、振り帰ってみるとこの一年で40本くらいは書いたので、まあひとつのコーナーとしては成り立ってるのかな?などど、勝手に思ったりしました。

さらには、ネット上に散らばっている色んなHPに刺激されて、自分にはどんなことが表現できるのか?と色々ネタを探してみたり、自分は物事をどう捉えているのか?ということを客観的に考えるようななったりと。総じて、このHPを立ち上げてから、自分自身というものに対して積極的に考える事が増えたような気がします。
上手い下手は別にして、文章を書くということは、頭の中の混沌とした物事をひとつのベクトルを持った考えに整理し直し、その考えの持つ意味合いを具体的なものに変換するという作業なわけで、普段、パッと頭の中に浮かんでは消えていってしまう考えを自分の中にしっかりつなぎとめる非常に良いきっかけになったと思います。

誰に伝えるでもなく、ごくごく、自己満足なものばかりですが、こうしてある程度数がまとまってくると、それなりの体をなしてくるので不思議なものです。何年後、何十年後かになって読み返したときに自分がどう感じるのか楽しみです。

とりあえず、一年間継続してきて、このHPの存在が自分にとってある種、生活の張り合いにもなっているし、自分がこれからも継続して更新して行けそうな人間であることが確認できたので、こんな内容が中心ですが頑張って続けて行きたいと思っています。ネタが枯渇しない程度にダラダラと続けて行きますので、これを読んでくれている皆さんも、よろしかったらまだしばらくはなんとな〜くで結構ですのでお付き合い下さい。<m(__)m>・・・なんも出ませんケド(笑)。
2003.12.21

■転ばぬ先の・・・

宇都宮地方は昨日、突如の大雪に見舞われましたが一晩経った今日は晴天に恵まれ、既に道路の雪は日陰を除き、殆どが溶けてしまいました。多分、明日はもう、普段通りに車で通勤が可能だと思います。去年も何度か雪に降られましたが、結局ノーマルタイヤのままで過ごしました。で、コレについて。
会社で、私がまだスタッドレスを買っていないし、買うつもりもないと言う話をすると、みんな目を丸くして「はぁ〜?」と不思議生き物を眺めるような顔をします。別に金が惜しくて買わないわけでは無いのですが(・・・惜しいかな?)、いまいち納得出来ないので買わないのです。(日記と言ってる事違うけどね^^。)
私は元々南関東の人間。どんなに寒い冬でも、雪なんて滅多に降らないし、スタッドレスを履くこと自体が考えられない土地で育ちました。スタッドレスなんてスキーでもやらない限り必要ないと思って生きてきました。
大体からしてスタッドレス履いた車のグニャグニャした走行感覚。考えられません。そして、そのスタッドレスが本当に必要になるのは年に何回あるのか?あったとしても二回か三回。いつ来るか分からないその二回か三回の為にあんな走行性能の悪いタイヤを履き続けるなんて・・・。大体スタッドレスが機能するのは雪の上でしょ?凍っちまえばノーマルだろうがスタッドレスだろうがすべるもんはすべる。そんなときはチェーンつけた方が良いに決まっているし少なくともここ栃木での私の生活圏内では本当にスタッドレスが必要な道路状況になることはまず、ない。
で、逆にスタッドレスはいてる人たちを観察していると、
・スタッドレスはいているというだけで安心して雪の後なんかでも運転が荒い。
・何年前に買ったんだか分からないヒビだらけのスタッドレスを履いて自慢している。
そんな人が多いです。
また、私が経験した数少ない雪の降り方を思い返してみると大抵の場合、夕方過ぎから雪が降り出し、夜のうちに止み、翌朝には少なくとも幹線道路は問題なく車で走れるレベルになっている。というのが私が確信している点。それでも、どうしようもなく降っているときには、公共の交通機関やタクシーを使うか家を出ないことにしています。それだってたった一日くらいのことで済むはずです。これが、もう少し北に行くと話しは違ってくるんでしょうけど、それだけここが中途半端な土地だということですね。
と、言うわけで?私の中ではスタッドレスを買うということの意味が見出せないのです。自分で意味が無いと思うものにまとまったお金を出すほどお金を持っているわけではないので。周りに何と言われようが買わないのです。

・・・なんて事を言っているやつに限って後で痛い目を見るんだろうケド。
つまりこういうこと、人間は実際に痛い目を見ないとそれを回避するための道具を買うために出費することへの正当性が認識できない悲しい動物なのです。・・・って、私だけかな?

「人は目の前で誰かが転ぶか、自分が転ばないかぎり杖を買おうとはしない愚かな動物である。」・・・へリック・ツォ・ヤヂィ(哲学者)
2003.12.21

■人類の可能性

忘年会シーズン酣ですが、我々も例に漏れず突入中です。で、当然普段以上に酒を呑んで(呑まれて?)普段以上に酔っ払う訳ですが、その酔っ払い達(当然自分も含む)から得られた人類の可能性に関する知見を一つ。
一次会、二次会と飲み会が進行し、いよいよ三次会はカラオケで〆。と成り、次の店に移動となった訳ですが、目的地は今いるところからはちょっと離れている。歩くにはちょっと遠い距離。普通ならここでタクシーの登場となるのですが、誰かが叫ぶ「そこ左に歩いていけばすぐだよ!」で、酔っ払い達はワサワサと歩き始め、中には走ってどっか行ってしまうのも出たり、知らない間にはぐれてしまうのがいたりして、自然淘汰されながら結局は目的の店についてしまうわけです。そして、またその中から「気持ち悪いから帰る」と言って、通常ならば到底歩けない距離を自宅まで歩いて帰り始めるものも出てきます。で、みんなシラフに戻ったときに思うわけです。「よく歩いたよな〜。とても信じられない。」と。
また、私の学生時代の先輩には次のような逸話をもつ人もいます。自宅は電車の最寄の駅から路線バスにのって終点からちょと歩いたところ。で、飲み会が終わったのは当然バスの最終が出たあと。仕方なくその人は自宅まで歩くことにしたのだが、何故そうしたのかは解からないが、家までの道のり、路線バスの停留所の看板を一個ずつずらして帰ったらしい。で、翌朝終点にふたつあるバス停の看板に首をかしげたそうな。通常ならばこんなこと絶対出来るわけがありません。あんな重いものもって歩けるはずがありません。が、酔っ払いなら出来るのです。出来てしまうのです。

で、思ったこと。俗に火事場のくそ力と言われることがありますが、酔っ払いの行動を見て(して)思うに。普段、我々は自分たちの能力のかなりの部分を自らの理性で押さえ込んでしまっているのだなぁ。ということ。「あんな距離歩くの絶対ムリだ。」とやる前に既に自ら制限をかけてしまっているわけで、理性が吹っ飛んだ酔っ払いは何のためらいもなく、そのムリな距離を歩ききることが出来ます。他にも同じようなことは色々言えると思います。ということは、この理性の壁を取り払うことが出来れば、我々の能力は飛躍的に向上するに違いないのです。それが出来るようになったなら、映画に出てくるスーパーマンみたいな人が出てきたり、スポーツの世界記録なんてあっという間に一桁違う域に達するのではなかろうか?人類はそう遠くない将来次なるステージに突入するのでは?という期待まで沸いてきます。まだまだ我々は進化できる。

・・・でも、飲み会の翌日、抜け切らない酒と戦いつつ、理由のわからない筋肉痛に首をかしげているうちはこのままなんだろうな〜と、遠い将来に思いを馳せてみたりする今日この頃。・・・今週も忘年会は続く。
2003.12.14

■私的店員考

掲示板で話題が出たので私的意見をひとつ。どんな商品を扱ってる店舗であれ、そこにいる店員さんはお客さんにとってみれば、その商品の代理人であり、それを販売すること、そしてその後のアフターサービスまでを含めて面倒を見る責任があると私は思います。最近は特に売る方も買う方も、売りっぱなし・買いっぱなしという図式が普通になってきていますが、本来はそうでは無いと思います。まあ、時と場合によってはその方が煩わしくなくって良い場合もありますけど、私は基本的にはそうは思っていません。例えば、欲しいものに対する商品知識は昔ならそのお店の店員さんから聞きだすしかなかったのが、最近はネットの普及により下手をすれば我々消費者の方がよっぽど詳しい知識を持っていたりします。そうすると店員さんの存在意義はどこにあるのでしょうか?ただの購入窓口?値引き交渉の相手?それって悲しすぎます。まあ、大型量販店なんかの場合は次から次へとやってくるお客さんをこなさなきゃいけないからそれも仕方ないと思うけど、それでも私は出来れば色々話をしてその店員さんが今後のことも含めて(クレーム・リピート等)それなりに信頼がおける人だと思ったところから、その店員さんの人柄も込みで購入するようにしています。可能な範囲で。これって例えば車やバイクなんかを買うときがそうですよね?まあ、値段が値段だからそれが当たり前だろうけど、例えそれがCD一枚だってそうして買いたいものです。それが面倒くさい人には金出せばモノが出てくる式が良いのだろうけど・・・。

逆に言えば、店員さんの立場からはどう思ってるのだろう?ただの仕事だからどうでも良い?そうかも知れないけど、私だったらお客さんが多少なりとも自分を信頼してくれて、次に何か買いに来るときにも自分を名指しで来てくれたら嬉しいし、そうなるように努力しようと思うけどな・・・。それって、商品知識云々よりももっと大事なことだと思うのだけど・・・。少なくとも、以前モノを売る側の立場にいた人間としてはそう思うし、私にそう教えてくれた主は今もそうして頑張っています。(・・・と思う)

年に何回か、もしくは何年かに一回くらいしかいけないお店に顔を出しても、「おう、元気だった?」という一言が交わせることこそが売ってる商品以上にそのお店の価値ある部分だったりひいては自分の財産だと思うのだけど。
そういう繋がりが希薄になってるな〜と思う今日この頃なのですが、皆さんはいかがでしょう?・・・そんなの要らない?
2003.12.07

■規則遵守と臨機応変

健康診断に行ってきました。我が社では毎年夏休み明けに健康診断を受けるのですが、今年、私は一週間ずらして夏休みを取ったため受診出来ませんでした。で、その振り替え検診があったのですが、実は一週間前に、それとは別に、業務上製品の試作等の実作業を行う社員を対象に半年に一度行う特殊健康診断というのがあるのですが、それを受けたばかりです。違いは一週間前のには肺機能検査があるということのみ。何故に二週間も続けて同じような検査を受けなければならないのか疑問ですが、依頼先が違うようなので、それぞれが診断を実施したという事実がないと商売にならないだろうし、会社としても義務付けられているだろうから仕方ないところですが、どう考えたって非合理的です。タイミング的な問題もあるだろうけどどっちか片方にするとか日時をずらすとか出来ないのでしょうか?
一方、今週受けた健康診断は午後からの検診だったのですが、注意書きには朝食も昼食も取るなとあります。育ち盛りにとってあまりに酷ですが(笑)、そうしろと言うのだから仕方ありません。空腹と戦いながら受診会場に行くと、いたって事務的に次から次へと検診が進んで行きます。が、結局診たのは胸部レントゲン、検尿、身長体重、血圧、診察・・・果たしてこのどこに食事を取ってはいけない理由があったのでしょうか?まあ、検尿はうなずけるけど、そんなの朝一のを各自が採取すれば済むのではないだろうか?多分、人によっては採血したり、バリウム飲んだり、食事を取っては都合の悪い人もいるだろうけど、だからといって画一的に全員健康診断の時には食事を取らないというルールは如何かと思います。きっと、きちんとした理由があるのだろうけど、その理由が分からないままでは、こちらも疑問が残るところです。

これをこうしなければならないというルールがあり、それを守るのは大切なことだけれど、時と場合によっては臨機応変に対応できないものでしょうか?それが問題となるようならそのルール自体が見直されるべきだと思うのですが・・・。これはなにも今回のことに限ったことではなく、身の回りのありとあらゆることにあてはまると思うのだけど・・・。

間違ってるかなあ・・・?
2003.12.06

■6人の諭吉

今日、ふと思い立って、もう何年も使っていなかった銀行口座の残高を確認してみました。「確か何千円か残ってたんじゃないかな〜」と思いながら残高照会をしてみると・・・、諭吉さんが6人程いらっしゃいました。「おおっ?」意外な結果にかなり驚きました。何故か周りをキョロキョロと見回し、別に悪いことをしているわけでも大金を下ろすわけでもないのにコソコソと手元を隠します。明らかに挙動不審です(笑)。後ろにまだ人が並んでいたので、ちょっと気まずくなり(?)一旦外に出て別の用事を済ませ、再度戻ることにしました。今度は別のカードも試してみます。「コレはひょっとするともっと残ってるのでは?」と淡い期待を持ちつつ残高確認のボタンを押すと・・・299円。「にひゃくきゅうじゅう・・・」期待が大きかっただけに愕然です(笑)。まあ、それはさておき、以前銀行に勤めている知人から聞いたことがあります。確か10年間その口座にお金の出入りが全く無いと「お取引放棄」とかなんとか言う規則が適用され残金が全て銀行のものになってしまうというとんでもなく恐ろしいルールがあるらしいのです。知らないでいると大損する可能性だってあります(みんな知ってること?)。
今回6人の諭吉さんを見つけたこの口座はかれこれ5年近くは何にも動きがなかったハズで、まあ、今のところまだまだ安全圏内ではありますが、この先もこの口座は使う予定がないので、下手したら気づかずに私の手元から無くなっていた可能性があります。運良く(?)気がついた今がその時だと思うので、6人の諭吉さんにはここを引き上げて別の口座に入ってもらうことにしました。

それにしても世の中にはこうして気づかれずに眠り続けているお金がいったいいくらあるのでしょうか?そうとうあるんじゃないかな〜。忘れっぱなしで銀行に取られてしまうくらいならいっそのことみんなして使いまくってみてはどうだろうか?その方がちったぁ日本経済が上向く要因になるかもしれない。うん。
・・・ということは何かい?今回私が見つけた諭吉さんたちも日本経済復興のために旅立ってもらった方が、場所を変えて再び眠り続けるよりも断然、世のため人のため私のためではないのかい?
え〜、ということは6人だから・・・、例のプリンターが余裕で買えるなぁ^^。いや待てよ、iPodだっていけちゃうなぁ・・・(笑)。

皆さんも一度調べてみたら?意外とあるかもよ?
2003.11.29

■道のとおりに空がある

これ、ある年の「いいちこ」のポスターのコピーなのですが、これだけだと何のこっちゃですが、ポスターと一緒に見たらやられます。しかも歴代の作品をずら〜っと見てきてこいつにぶつかったら相当の衝撃ですよ。私、ハッキリ言って真正面から打ち抜かれたって感じでした。
あ、話が前後してしまいますが、何のことかと言うと、HPの新しいコンテンツとして焼酎に関するページを作ろうとしてしていたとき、中で取り上げようとして「いいちこ」のWebサイトに行ったのですよ。そしたらそこに過去20年分の歴代広告ポスターのギャラリーがあって、なんとなく見ていたら思いっきり引き込まれちゃって、その途中で表題のコピーにぶち当たったと言う訳です。
見始めるとなかなか面白くって、初期の作品こそ「いいちこ」自体を売り出そうという思いが込められた広告創りだったのですが、いつしか完全にイメージ広告として定着して行き、ポスターの中には商品であるいいちこがちっちゃくポツンと写っているだけ。しかも絶妙に景色に溶け込んで・・・。ある種「おとな」の広告に育っていったわけです。当然大手広告代理店の制作によるものでしょうが、やはりさすがですね。
歴史を順に見てくると、ある種のパターンが見えてきます。季節・場所・状況。どれも非常に間接的に酒を飲むということを想起させる素晴らしい作品です。中には明らかにねらい過ぎて失敗した作品もありますが^^、それも何十枚というポスターを次々に見てきて初めて気がつくレベルで一枚一枚は非常に完成れていると思います。で、それとは逆に、こんなに数多くの作品の中で飛びぬけて完成度の高い作品が突如として現れます。私にとっての傑作も表題のものの他にいくつかありました。それらを見つけた瞬間は本当に「くぅ〜、やられた。」という感じ。脱帽もんです。
選ばれた才能達に接することが出来る貴重な時間だと思います。皆様もグラス片手にごゆるりとどうぞ。

世の中に広告なんて星の数ほどあり、それに付随するコピーもまたその数だけあるわけで。どっちが先にありきだったのかはわかりませんが、その両者が合わさって初めてひとつの作品として世に出、それがまた果たしてどれだけの人の心を突くことが出来るのか・・・。考えて見たら広告創りって本当に難しいですね。

我がHPは、そんな目的でもなければそんな高いレベルでもありませんが、少なくとも文字と写真の組み合わせでどれだけ人に思いを伝えられるか?ということを念頭にこれからも日々精進して行きたいと思います。いつしかそんなコーナーも作りたいという構想はあるのですよ。当然バイクがらみ車がらみ食いもんがらみ・・・ですが。そのためにはまずは、写真の腕と文章の腕を磨かなくっちゃね。ってそれが全てか。あ、あとセンスもね。

・・・ムリかもね。
2003.11.24

■mac ! Mac !! マック !!!

いやはや驚きました。何がって、OSの進化にです。10年も遠ざかっていれば当たり前なのですが、それでもWindowsを3.1の頃から使ってきて、95・98・・・XPとバージョンアップするに従い、「随分マックに近づいてきたな〜」とホントに思っていたのです。Windowsも頑張ってきたな〜と。しかし、これも当たり前のことなのですが、マック自体も進化していたのです。それもWinなどが到底及ばない遥か先まで。迂闊でした。私が感じたWinの進化は、「ようやく10年前のマックに近づいた。」という次元に過ぎませんでした。このOSX Pantherを使って本当にそう思いました。漢字Talk7.1の時代から一気にOSXですからその驚きは当然としても、その間の空白をちょっと後悔しました。「俺は何をやっていたんだ。」と。この進化の過程を体感してくるべきでした。多分ず〜っと使い続けてきたマックユーザーもこれには驚きを感じたのではないかと思うくらいの衝撃でした。よくマックを表現するのに「直感的」という言葉が使われますが、まさにそれ。そして、さらにその画面上からは無限の奥行きが感じられます。高々10数インチのモニターが何故あれほど広く、深く感じられるのか、不思議であるとともに動かしていて笑いが止まりません。ハッキリ言ってOSX使った後、Win使ったらホント「うすっ!」って感じ(笑)。使う気起きませんよ、これは。PC量販店で先進的な外装や、様々な便利機能を謳ってその存在をアピールしているPC達が虚しく見えてきます。外は高級感たっぷりでも中身は・・・。いや、色々工夫されて使いやすくはなっていると思いますけどね、マックさわりたてで直感的にこう思うって事は今後使い続けていったら・・・。結果は見えてますね。でもまあ、そうは言っても大多数のPCユーザーがWindowsを使っており、自分もこれからも使って行くのには違いないのですから、更なる進化を期待しましょう。

いや〜、それにしてもこれほどまでの衝撃を受けるとは思っても見ませんでした。さっきとは逆になりますが、ある意味今まで待ってて損はなかったという感じ。満を持して戻ってきたマックの世界。タイミングの選択に誤りはありませんでした。マックユーザーに戻ってきた喜びを声を高らかに表現したい。本当にそう思わせる素晴らしい魔法の“White Box”であることを再認識しました。

I am back !!

・・・ちょっと褒めすぎかな?^^
2003.11.23

■適材適所

良く行く近所の本屋のレジには最近から働き出したと思われるふとっちょのおばちゃんがいます。まあ、それだけならなんら話のネタになる事柄では無いのですが、とにかくこのおばちゃんのレジでの接客対応が妙に芝居がかっていてとてつもなくおかしいのです。どう芝居かっているかは、文章で表現するのは難しいのですが、イメージしやすいものを強いてあげるとすると、とんねるずののりたけが、良くコントでやるおかま風のキャラが「いらっしゃいまっせ〜」といっている感じ(全然わからないですよね(笑))。とにかく言葉のあちこちに妙なアクセントがついており、調子に乗ってるときは「ら」と「せ〜」しか聞こえません。それを甲高い声でやってるので、レジで向き合って代金を支払っている間だけでもなんかこっちがこっぱずかしくなってきてしまいます。しかも、あんまり手際が良くないので、関わっている時間が長くなり余計つらくなってきます。本人はひとつのパフォ〜マンスのつもりでやってるのかなあ。と思ったりしますが、もしそうだとしたらあんまり成功しているとは思えないなぁ。多分あれは同じバイト仲間からも評判悪いに違いない。だって、普通ちょっとありえないくらい大げさだもの。しかも本屋のレジである必要性が全くないわけで、居酒屋とかで働いていた方がよっぽど違和感が無い・・・って、そうか!今わかりました。多分あのおばちゃん、前は居酒屋で働いてたね。そうだ、そうに違いない。だとするとあの妙に違和感を覚える言動が自然に思えてきます。なるほどね〜。やっぱり人それぞれ、ふさわしいステージがあるわけですね。あのおばちゃんも居酒屋に行けばなんら違和感なくその場に溶け込めることでしょう。

そういう観点から考えてみると、ちょっと面白そうなので今度からいろんなジャンルのお店のちょっとくせのありとうな店員さんを良く観察してみることにします。この人、別のこういう店にいたら面白いな〜、なんて事がいっぱいありそうですね。ちょっと楽しいかも。・・・って、私はオタ?
2003.11.09

■脳と身体の不思議

最近、フロに入っていてふと、「あれ?今、俺頭洗ったかな?」と思うことがたまにあります。
実際には洗っているのですが(・・・と思う^^)、何か考え事をしながら惰性で洗っているので洗い終わった直後に短期記憶が飛んでるせいだと思います。恐らくほとんどの人が、フロに入って身体なり頭なりを洗う自分流の手順が決まっていると思いますが。それらは、ゆっくりと長い時間をかけて習慣化しているため、ついにはほぼ無意識の状態でも同じ作業が繰り返せるようになっているのだと思います。なので、よ〜いドンで洗い始めた時に、何か考え事を始めると、考えることに没頭し作業自体には意識がいかなくなります。が、身体は長年続けてきた作業なのでほぼ反射に近い状態で動き続けます。そういうわけで、私の場合、身体洗い始めたところまでは覚えているのに、頭を洗った記憶が無い。でも、髪は濡れている。「はて、洗ったかな?」っとなるわけです。で、よ〜く思い返してみると断片的に頭を洗っていた光景がよみがえり、自分が頭を洗ったということを認識するわけですが、それとていつの記憶かわかったもんじゃありません。人間の記憶なんて結構いいかげんなモンですね。多分、頭洗ってるときに後ろからガンとやられて、2,3日眠らされて、その後同じ場所に戻されても何も気づかずそのまま生活できるような気がします・・・。

このような人間の脳と身体の反応との間に存在する不思議なメカニズムを説明するのには、非常に難しい理論を展開し、然るべき知識人の意見等もよ〜く聞いて、よくよく吟味する必要があると思うのですが、平たく言うと・・・「老化現象」ですよね^^。

あ〜やだやだ。
2003.11.05

■ふたつの人種

この世の中には二つの人種が存在すると思います。「バイクに乗る人と乗らない人」これは私の確固たる持論なのですが、今回は置いといて・・・。

とある物事(出来事でも可)に対して、出来ない理由をひたすら考える人と、どうしたら出来るかを考える人。この二通り。で、私の周りに何と前者が多いことか・・・。ただし、これに対して良いとか悪いとかを論じるつもりはありません。考え方は人それぞれなので。ここでは、「自分のスタンスとしてどうありたいか?」ということについてちょっと考えて見たいと思います。
日々生活していると程度の差こそあれ常に二者択一の選択を迫られる事柄が発生します。「出来るか?」「出来ないか?」私の場合、出来るだけ「出来る」方向で考えることにしています。が、こと困難なことに出くわした場合、まず正直に「ムリだ!」と思うことが多々あります。が、それで片付けていては何も先に進まないので、「ムリだけどどうしたら出来るか?違うやり方は無いか?」と考えることにしています。・・・というか、自然とそういう考え方の回路が動き出します。後は実際に動き出しながら他とのバランスを取って行きます。で、前者の方々の反応を見ているとことごとく「ムリだ!」から入ります。そして、出来ない理由を次から次へとあげて行きます。理由は多分「その方が楽だから」なのだと思いますが、自分を守ろうと必死なその姿を見ていて時々思うことは、出来ない理由ややらない理由をあれこれ考える労力を少しでも「出来る」方向へ向ければ良いのに。と言うこと。だってはたから見てるとそこで足踏み(もしくは後戻り)しているようにしか見えないもの。
困難に突っ込んで行くのは大変だけどその先に新しい発見や経験が沢山待っていると思うんだけどな。同じ労力を使うなら前に進んだ方が楽しいよね。例えそれが間違った方向だったとしても。ダメならやり直せば良いんだし。それを「時間の無駄だった」と考えるか、「次に活きる」と考えるかはその人次第でしょう。

まあ、結局どう考えるかは人それぞれなのでどうこう言っても仕方ないのですが、個人的にはどんな困難な場面に出くわしても、「出来る」方向で考えられる人間でいたいというのが私の願いであり、人生の目標です。

でも、時々言いたくなります。「もうできましぇん」って(笑)。
2003.10.19

■私の彼は・・・?

別に私にその手の趣味はありません。誤解の無いように^^。今の会社に入ってもうすぐ2年が経とうとしています。いわゆる外資系企業なので、それなりに外人達と接する機会があります。で、これまで接してきた外人達を見て気づかされるのは、かなりの確率で「左利き」が居る、ということ。あまりに多いので感覚的には5割くらいの確率に感じます。彼らの国では日本と違って左利きを右利きに矯正するようなことはしないため、左利きの確率が多いらしいのですが、こと文章を書くことを考えると、日本語と違って必ず横書きで左から右へ文字を書き連ねて行くアルファベット文化の彼らこそ右利きに矯正した方が良いのでは?と思ったりもします。だって、すんごい書きにくそうに書いてるんだもん。おまけにきたなくって読みにくいし。合理的な部分を追求する欧米文化にしては珍しく非合理的な部分です。
でも、左利きが多いからこそ右脳が刺激されてユニークな発想や人間が形成されるのでしょうか?そう思うと、確かに日本人は画一的過ぎるような気がします。日本人の中にだって、もともとはかなりの確率で潜在的に左利きが存在しているでしょうから、これからは下手に矯正などしたりせずに、もっと左利きの人々を増やすべきなのでは?っていうか、むしろあえて左利きに矯正してみるっていうのはどうだろう?そうすると今まで決まりきっていたことが、そうではなくなる部分なんかが出てきたりなんかして、そういった小さいことの積み重ねによって、ちょっとは違った日本文化が発達するかもしれないし、考え方なんかにも影響が発生したりして、今の閉塞した日本が少しは面白くなるかもしれない。何もしないでそのまま流されていくよりは、何かが変わるかもしれない可能性がありそうだ。いいんじゃない?しかもリスクもほぼゼロ。

どうでしょう?「日本国民総左利き化計画!」・・・くだらない?そうだよね〜。
2003.10.05

■新車の匂い

私の206は言わずと知れたフランス車。で、フランス人のVincentをホテルまで送り迎えしているのですが、最初に206に乗り込んだ瞬間に、「おお、新車じゃないか!まだ新車の匂いがするよ。」と言うのです。私の206は買ってからそろそろ1年半。確かに古くは無いけど、さすがに新車の匂いはもうしないよな〜と思いながら、「そうかそうか」と相槌を打っておいたのですが、そんなにフランス人って匂いに敏感なのかな〜と思っていました。で、ホテルに送って、夕飯食べて、さぁ、帰ろうと車に乗り込みエンジンかけた瞬間、エアコンからぶわ〜っと出て来たのです。アレが。そう、あの特有の外人臭が。たった30分程乗っけただけなのに、です。・・・で、分かりましたよ。彼が新車の匂いがすると言った理由が。そりゃあんた、あんだけ体臭が臭けりゃ、あっつー間に車は自分臭くなって新車の匂いなんてしなくなるわさ。それに比べりゃ日本人は無臭って訳ですな。新車の匂いも感じる訳だ。
で、昨日あの狭い室内に二人の外人を一日中乗せていたのです。今、車の中はえらい事になってます。・・・当分消えないな、あの臭い。

嗅ぎに来たい方はどうぞ。
2003.10.05

■Make sense!!

引き続き外人接待週間中なのですが、今日、なかなかに納得した話があったので、披露したいと思います。
発表会が終わった後、イギリスで開発をやっている出稼ぎフランス人が日本に残り、技術指導という形で私と数日間仕事を一緒にします。で、話は当然週末の予定になるわけで(?)、一日は例のごとく日光に連れて行き、もう一日は東京に行くことになりました。それはそれでよいのですが、東京ったって、結構広いわけで、本人がどうしたいかで行き先が変わってきます。で、聞いてみました、何がしたいのか、何が見たいのか。・・・と、こう言うのです。「別に何でも良い」と、「とにかく東京に行きたい」のだそうです。いや、そりゃそうだけどやっぱりそれじゃ困るのでもう一回別の角度から聞いてみました。「例えば秋葉原で日本製の電化製品が買いたい、とか、浅草で日本の下町が見たいとか、そういうのないの?」と。そしたらやっぱり「ない」というのです。そしてこう付け加えたのです。「おまえだってフランスに来たらパリに行きたいって言うだろうし、イギリスに来たらロンドンに行きたいって言うだろ?それと同じで東京に行きたいんだ。」と。

う〜ん、なるほど、言えたね、・・・納得。

・・・とは言うものの、じゃあどこに連れて行けばいいのだろう・・・?やっぱり悩んでしまうなぁ・・・。皆さんならどこへ連れて行く?
2003.10.02

■人生の「ムダ」

無駄な人生についてではありません。そんな話題では盛り上がれませんので^^。
先日の日記に書いた500円玉貯金について、会社で「ついに10万円達成した!」と、昼ごはんを食べながら話していると、同席した同僚が「また無駄なところに力を注いでますね。」と言いました。もちろん、これは批判ではなく、ある程度私の人となりや考え方・行動を知っている彼が、好意を持って「あなたらしい」とバカにしてくれた^^のだと私は勝手に解釈しました。
そこで、今回のポイント。このように私の行った500円玉貯金なるものは、ハッキリ言ってムダです。大した意味もないと思います。が、それを単なる「ムダ」として流してよいものか?私はNoだと思います。この「ムダ」こそが人生を有意義にしてくれるのではないかと思います。ムダの無い人生が送れればそれは素晴らしいことだと思いますが、その反面、ムダのない人生なんて本当につまらない人生だと思います。ムダがあってこそ人生は輝くのだと、私はそう思います。
それこそバイクなんて人生においてムダ以外のなにものでもないですからね。何の実用性もない。・・・が、こいつの無い人生なんて考えられませんから、少なくとも私の人生に「ムダ」は必要な要素なのでしょう。

そういうわけで、せっかくの休みなのに今日もムダな時間を過ごしたわけです。やることもやらずに・・・
2003.09.26

■日本滅亡の日

今日、出張先から帰って来て乗換駅で電車を待っていると、周りに響きわたるでかい声でじょしこおせい二人が会話していた。

「うちのバイト先の社員がちょ〜バカでさ〜、おまえバイトよりひどいんじゃないの?って感じなわけ〜、まったくバカ相手にしてるとつかれちゃうんだよね〜、ちょ〜使えないってかんじ〜。社員のくせに。」
「え〜それ最低〜!いるよねそういうバカって。バカは自分でバカって気付かないから手に追えないよね〜。っていうか、おまえ気付けよって感じ。」
「そうそう、ちょ〜疲れる。バカの相手も楽じゃないんだよね〜。」
「わかるわかる〜。」
「キャハハ・・・」

・・・日本は終わるな、と思った。
2003.09.22

■目からウロコ

バイクに乗り始めて気が付けばそろそろ20年。それなりに経験も積み、それなりに走れていると思っていました。が、何故か越えられない一線がありました。特に新型TDM1号・2号と走るときにはどんなに頑張ってもコーナーをひとつクリアする度に引き離され、あっという間に姿が見えなくなってしまうことの繰り返し。ああ、コレが腕の差なんだなと思っていました。到底追いつけない次元の違う走り。
が、今回運良く?○賀さんに後ろを走ってもらう機会がありました。一応一生懸命走っているのですが、たまにミラーを見ると同じペースで○賀さんは、デジカメ撮影をしている。う〜ん、何故だ?休憩中聞いてみました。「私の何がいけないのでしょう?」と、ひと言「バンク角」。う〜んやっぱりそうか、わかっちゃいるんだけどね。でも・・・そうは言っても、これ以上どうバンク角をかせげばいいのだろう?今だって走っててタイヤに接地感がなくって足元払われそうな気がしてるのに・・・「コーナーリング中にちゃんとアクセル開けて、タイヤに加重をかけて安定させてやれば・・・」、そんなこと言っても、普段だってコーナーリング中オーバースピードでコーナーに進入することが多くって、冷や汗かきながらアクセル戻すことばかりなのに、一か八かでアクセル全開にするほど根性座って無いよ。やっぱりムリなのかな・・・。その後、○賀さんがペースを落として先導してくれます。「バンク角か〜」と思いながら後ろを走っていると、ふと、あるポイントに気がつきました。お?そういやそうだな・・・と思い、ちょっとまねしてみる。おおっ?もう一度。おおっ!!全然違うぞ。ちょっと今までの走り方に戻してみる・・・。おおっ、違いが良くわかる。再度まねしてみる。そうか!そうだったのか!いわれりゃ確かに今まで全然バンクしていなかった。そりゃ曲がるわけないよ。が、これなら今まで怖くってアクセル戻してたようなコーナーで思いっきりアクセル開けながら曲がっていける!コーナーリングってこんなにバイクが安定するものだったのか!今まで俺は何をやっていたのだろう?自分からバイクを曲がらなくしていたのだ。怖くって当たり前だ。
いや〜、それにしても目からウロコってこういうことを言うのですね。で、思いました。今まで積み重ねてきた経験、そしてこれから積み重ねていくであろう経験。どこをとってもこれほど劇的に走りに対して感じる「感覚」が変わる瞬間は無いだろうと。本当に世界が変わりました。バイクに乗り続けて来て良かったと思いました。峠を速く走れるにこしたことは無いけれど、今回思ったのは、それよりも「安全に気持ちよく」コーナーリングが出来るようになった。ということ。結果として多分これまでよりも多少は速く走れてると思います。
あまりの劇的な変化に自分でもやや戸惑っていますが、少なくともこの感覚を覚えているうちに記録を残しておこうと思いました。バイクに乗り続ける大きな材料をまたひとつ手に入れました。キーワードは「軸」。そして、
こんな楽しいこと、絶対やめられません!!

・・・って、次回のツーリングで全部忘れてたりして。
2003.09.14

■理由

なんて特にありません。ただバイクが好きなだけ。バイクであちこち走りまわるのが好きなだけ。・・・それだけではもう不十分なのでしょうか?いつからだろう?自分の行動に「理由」が必要になって来てしまったのは?他の誰かに説明するためではなく、自分と折り合いをつけるための「理由」が・・・。ただただ楽しくって走りまわっていた頃は理由なんて要らなかったはず。でも今は何か行動を起こすのに理由が必要になってきています。これが、大人になるってことなのでしょうか?だとしたらイヤですね。大人は。少なくとも、自分の趣味であるバイクだけは、いつまでも「理由」などなく乗り続けて行きたいと思います。その理由は・・・
2003.09.11

■おいおい

楽しかった北海道の余韻が覚めやらぬ今日この頃ですが、3ヶ月ぶりでアレルギーの検診に行ってきました。特にコレと言って大きな症状も現れず、前回先生に予告されていた通り、今回で通院は終了となりました。それでも日々身体のあちこちが痒くなるので、家のホコリに身体が反応しているのでしょう。
「あれから3ヶ月、タバコは吸ってないね?」「はい、吸ってません」「優秀優秀」「特に変わった症状も無いね?」「はい、ありません」「じゃあ、とりあえず通院は今回までということで、何かあったらまた来てください。」「はい」「じゃあ、クスリまた3ヶ月分出しときますから。お大事に。」「はい。えっ?」・・・実は既にかれこれ2ヶ月程クスリを飲むのをサボっていたので、家にはクスリがまだごっそりと・・・。もうこれ以上もらっても・・・。でも、小心者の私は、飲んでいないのがバレて怒られたくないので、素直にクスリをもらってきてしまいました。多分、今回のクスリも飲まないな。だって、あの量を目の前にしたら絶対引くって。こんなの全部飲んじゃっても俺の身体はおかしくならないのか?って思うもん。しかもアレルギーって絶対治らないものだし・・・。クスリの説明にもそう書いてあるもん。「コレを飲んでもアレルギーが治るわけではありません」って。飲む理由がみあたらない。
渋々クスリを受け取りに行くと、忘れてました。お支払額。またしても諭吉越えです。なんかさ、驚いちゃうよね。先生に診察してもらったのは上のやり取りの通りものの数分。そして大量のクスリを出されて、諭吉っちゃんがもらわれてゆく・・・おそろし。やっぱなるなら医者だね。うん。俺は間違ってたよ。それにしても高けーよな。
・・・等とブツブツ言いながら歩いている時、ふと思いました。ここ2回、3ヶ月毎に1諭吉+αが病院へ。その間私はタバコを止めるように言われて止めました。私は元々2日でひと箱くらいのペースだったので、ひと月で15箱。ひと箱250円として、ひと月のタバコ代が3,750円。3ヶ月で11,250円。・・・う〜ん、タバコを止めて浮いた分がほぼ丸々病院に吸い取られていっているでわないか!おまけに代わりのクスリはほとんど飲まないし。・・・まんまとやられた。
2003.08.28

■やめた事と始めた事

タバコをやめて3ヶ月が経った。とりあえずコレだけ時間が経てば禁煙成功と公言しても良いだろう。我ながら良くやったと思う。別に必死に頑張ったわけでは無いが、やめるべきタイミングを見失わなかった事が勝因だったと思う。(・・・とか言っておいて数ヵ月後にまた吸ってたらカッコ悪いなぁ)
で、調子に乗ってやめた事第2弾。

テレビを見るのをやめました。

全く何も見ないわけでは無いですが、ともすると意味もなく点けっ放しにしてしまうスイッチを思い切って消しました。コレはかなり勇気のいる事だと思います。気が付けば30年以上テレビが普通にある生活を続け、とにかくテレビから何かしらの映像と音が発せられていなければ落ち着かないという、完全にテレビ依存型生活に陥っていた私としては、ある意味歴史的快挙です。
テレビを消したことで、今まで時間が無い時間が無いと思っていたことが嘘だとわかりました。決して多いとは言えないけれど、自分次第でどうにでも使える時間が毎日少しづつだけど確実に自分にもあることを再認識しました。多分今までは、すぐにテレビを点け、なんとなく眺める事に時間を奪われていたのだと思います。特に日曜の笑点からサザエさんを経由するゴールデンラインはまさにソレですね(笑)。このラインにのっかっていた時には、今日という日を6時間近く残しながら、もう日曜日が終わってしまったような感覚にとらわれていましたから。いわゆるサザエさん症候群というヤツですね。テレビを消すことで、私はこの貴重な「一日の1/4」を取り戻すことに成功しました。ホント、いろんな事が出来ます。本を読んだり、物思いに耽ったり(笑)。
で、そんな時間を更に後押ししてくれるのが、先日の日記でも書いたとおりネットラジオです。静かな音楽をBGMにして流しっぱなしにしております。(もちろん、歌詞のない音楽ね。)なんかそれだけでもゆったりとした気分になれます。ネット漬けというのもこういう風に漬かればそんなに悪くないな〜と思う次第。
そうすると、アレだけたれ流しにされていたテレビからの情報は、私にとってさして重要でなかったばかりか、悪影響すら与えていたということになります。今や情報は自ら選べる、というか選ばなければいけない時代なのですね。う〜ん。
あ、始めたこと。・・・そのうちまた。
2003.08.03

■何がいけなかったんだろう?

最近雨続きだったおかげで全然バイクに乗ってません。このままでは夏の北海道の前にバイクがクサってしまいます。そこで、特に用も無いけどバイクを動かすために○マダ電機まで行ってきました。が、途中で急に雲行きが怪しくなり雨がポツポツ。こりゃまずいと思い品漁りも早々に急いで帰宅。が、この角を曲がれば家。というところでメーターケーブルが切れました。あ〜あ。なんだよ。
カプラが外れただけならいいんだけどな〜等と思いながらケーブルを確認してみる。
・・・あっ!グローブしたままだ。と思ったときにはもう遅い。ガッチリケーブル握ってしまった後。おNew(死語)のアイボリーのグローブが真っ黒・・・。あ〜あ。結局ケーブルも切れてるし。
ただちょっとバイクに乗ろうと思っただけなのに、雨降るわ、ケーブル切れるわ、グローブ汚れるわ。・・・やってらんね。
2003.07.27

■妙に納得したこと

とある日、スーパーの惣菜コーナーに行くと、非常に恰幅のよろしい女性がひとつのおかずを手に取りそれを凝視していました。その女性の歩く様子を言葉に例えるなら「のっし、のっし。」以外にありえない程の恰幅のよさです。よくぞここまで育った!父さんうれしいぞ。と褒めてあげたいくらいの・・・等と私が考えている間にもずっとおかずを凝視しています。その集中力ははたから見ていても怖いくらいで、周りに人を寄せ付けません。私も圧倒されその場を離れました。
他のコーナーを回り、しばらくして再び惣菜コーナーに行くと・・・まだ凝視している。
こわっ。と思った次の瞬間、山が動きました。そのおかずを手にし、まさに「のっし、のっし。」と数メートル離れたところにある買い物カートに向かい始めました。思った通りだ、と思いながら目で追うと、その先には・・・やはり同じような体格のどう見ても彼女のお母さんが!何で今までその存在に気がつかなかったんだろう?

で、それはさておき、私はその光景を見て妙に納得してしまいました。

「なるほどねぇ。」と。

一体全体何がなるほどなのか全く訳がわかりませんが、とにかく「なるほど」と思ったのです。で、それがどうしたのか?どうもしないけど、ひとつだけ興味が湧きました。あのず〜っとおかずを凝視していた間、彼女の頭の中でどういう自分との会話が交わされていたのか?ということ。そして、どう折り合いがついてそいつを買うことにしたのか?ま、本当にどうでもいいことなんですけどね。
2003.07.27

■特別な「ただの」一日

明日、34回目の誕生日を迎えます。何の区切りでもない、何ら特別でない普通の誕生日です。一年に一日しかない誕生日ですからそれだけで特別だという話もありますが、昨日だって今日だって一年に一日しかなったのだから明日だけがこれと言って特別なわけでもないと思います。個々にみればそれなりに特別だけど大枠でくくれば他の日と大してかわりばえのしない一日を365回積み重ねてきた結果、ひとつ歳をとるわけです。そう考えると何の面白みもないですが、平凡な生活を送り続けることは、実は相当な精神力・忍耐力が必要なのだと論じている人もいるわけで、それはそれで大切なことなのかもしれません。毎日ドラマみたいな事件が身の回りに起こってたら身が持たないもんね。

ただ、そうは言っても、やっぱり誕生日は特別な訳で、一年を振り返るのには良いタイミングなのかもしれません。34歳という中途半端な年齢では、この日を境に何かが大きく変わるという事もないのですが、まあつきなみですが、誰もが思うように昔自分が思っていた程は大人になれていないなあというのが正直な感想。

・・・と、ここまで書いて気づいたことがひとつ。ここ数年、誕生日前にならないと自分の年齢を全く認識していません。これは、歳を取りたくないとか、忘れっぽいとかそういうのではなく、生活の中で年齢を認識する必要が無いということですよね。おかげでアンケートとか何かの申込書に年齢を書くときに毎回計算してるもん。あれ?今何歳だっけっか?ってな具合で。そうすると、私の中で誕生日と言うのは、ひとつ歳を取るとか言うことよりも、自ら年齢を積極的に認識する貴重な日なのだということになります。ある意味とってもとっても特別な「ただの」一日なのかもしれません。
2003.07.15

■うざい

今年の梅雨は本当にしっかりとした梅雨ですね。これだけ降ればもう充分じゃないかとも思うのですが・・・。そうすると、せっかくの休みでも天気が悪いと外に出るのも億劫になり家にいるとが結構ありますが、そんなときに限って必ずあの人たちがやってきます。そう、各種勧誘の人たち。まあ、彼らも仕事なので仕方ないとは思いますが、本当にいい加減にして欲しいと思います。休みの貴重な時間を奪うわけですから本当ならこっちが金でも欲しいくらいです。断るにも結構体力・精神力を使うので、そこに費やした時間以上にダメージを受けます。なので、最近はチャイムが鳴っても出ないことにしています。余計な体力消耗やいざこざを起こさないためにもこれが最善の策では無いかと思います。・・・が、チャイムが何度か鳴って相手があきらめて帰ってゆくまでは、なんとなく息を潜めたりしてしまうわけで、なんだか悪いことをしているみたいな気持ちになります。なんでこんな思いまでしなきゃいけないんでしょうね?むげに断る勇気を持てれば楽なんだろうけど・・・。
等と色々考えている事自体がバカバカしくなってきた。勧誘絶対お断りっ!!もう来んなっ!・・・出来れば・・・来ないで・・・お願い。
2003.07.13

■Macが欲しいっ!!

理由は自分でもわからないのですが、最近猛然とMacが欲しくてたまりません。と言ってすぐに買えるほど私は角の前川さん家みたいに裕福ではないので(死語)、ただ欲しい欲しいと言っているだけなのですが、次にパソコンを買う時はMacがいいな〜と思う今日この頃なのです。
私もパソコンはMacから入った口なので、Mac使いの人間特有のパソコンに対する感情を常に抱いています。今、Windowsを使っているのは単なる浮気に過ぎません。私が最後に戻るところはやはりMacなのです。・・・既に10年近く浮気をしっぱなしですが。
私が使っていたのはLC475(古っ!)OSも漢字トーク7.1でした。買ったとたんにパフォーマシリーズの570とか630(数字合ってたっけ?)が出てきてとっても損した気分だったことを覚えています。7.5なんて邪道さ!と強がっていた頃が懐かしいなぁ。ハードなんて今じゃ考えられない160MB。それでも充分だったのです。そして、直後に発表されたPowerMacを羨望の眼差しで見ていたものです。ハードが500MBもあるっ!なんだあの重低音のオープニング音は?今思えばなんであんなことに心ときめいたのか全然理解できませんが・・・。それだけ魅力的なモノだったのでしょう。
今や時代はOSX。多分、あまりの進化ぶりに驚くんだろうなぁ。そして、きっとまたときめくに違いない。ただの''パソコン''という一言では言い表せない不思議なモノですよね、Macって。
まだもう少し先になるであろう二度目の出会いを心待ちにして、もう少しの間だけWindowsを使い続けることにしよう。
2003.07.09

■なんでだろう?

世の中の七不思議のひとつに今日はたて続けに3回も出会いました。
車で道を快適に走っていると、脇に止まっている車が、明らかに私が近づいて来ているのを確認した上で、もそ〜っと目の前に出てきます。私の後ろからは車が来ていないのに、です。そして、加速もせずトロトロ走り続けます。非常に精神的にダメージを受ける一撃です。私のことが嫌いなのだとしても最も性質の悪いいじめです。
田舎の方に行くと良く出くわす現象ですが、皆さんも何度か経験あるでしょう。しかし、こうもたて続けに出くわすと純粋な疑問として一度運転している当の本人たちにこう訪ねてみたい。


なぜ、出てくる?
2003.07.06

■時の流れに身を任せ・・・

先日、久しぶりに実家に帰ったら、近所にあった私が生まれた病院が取り壊されていました。ここ最近、帰る度に街並みが変わっていくことには慣れつつあったのですが、さすがに今回は少しショックを受けました。結構近所では腕の良い先生だと評判だったのですが、どうやら跡継ぎがいなかったらしいのです。その病院は産婦人科なので私は生まれた時以外、その病院にかかったこともなければ先生の顔も知りません。当然生まれたときの記憶なんてないので、親から「ココがお前が生まれた病院だ」と言われ、ああそうなのかと漠然と受け入れていたのですが、30年近く全く意識の外にあった建物が、あるべき場所から突然消えてなくなったことで、何か自分の中の歴史の一部がひとつ消えてしまったように感じました。と、同時に一方的に感傷にひたっている自分を発見し、勝手だな〜と思ったりもしました。
これから先、こんな風に感じる事が多くなって行くのでしょうか?これ、物事を足して考えているのではなく、引いて考えてますよね。間違いなく。今の自分の精神状態があまり健康的でない証拠ですね。時の流れに身を任せるのも必要だけど、押し流されないように気をつけなければ・・・
私をこの世に送り出してくれた病院は、自らが消えてなくなる事で、私に何かを訓えてくれているような気がしました。さて、それは・・・これから時間を掛けてじっくり噛み砕いてみます。
2003.07.05

■よ〜く考えてみよう

最近ニンジャを手放してあらためて「2台目のバイク」について考えてみた。別にムリに所有する必要は無いのだが、なんとなく一台じゃ寂しい・・・。とりあえずなんでも良いからバイクを複数台所有していないと安心出来ない。という危険な精神状態にあります。当然、折角複数台を所有するのだから、異なったタイプのバイクを選ぶのがベストだと思われます。例えば、ONとOFF。コーナーリングマシンとツアラー。ツインとマルチ。それぞれの目的に合わせて使い分ければよろしいのです。実際私もそういう所有の仕方をしてきているつもりです。が、そうすると必ず自分の中でNo.1とNo.2が生まれてくるわけで、No.2の方はだんだん乗らなくなってくるのがオチ。そうなると、No.2の方を手放して次のNo.1候補を探し始めます。理想は2台ともNo.1になれば良いのですが、なかなかそういうバイクにめぐり遭えないわけです。そういうわけで私も常々バイクライフの方向性をより広め、楽しむ為に試行錯誤して2台目をとっかえひっかえしているわけです。
今メインバイクとして所有しているTDMは非常に素晴らしいバイクで、今のところ私にとってこれ以上のバイクは出てきていません。なので、コイツとうまいことバランスをとって、私がバイクに求めている残りの部分を満たしてくれるヤツが出てくるのを待っているのです。
で、考えてみたわけです。TDMは非常にオールマイティーな使い方ができます。長距離も苦にならないし、峠も楽しい。街乗りもこなせる。それでは私が求める残りの部分っていったいなんだろう?
それがわかりゃ苦労しないってか?当分試行錯誤の日々が続くに違いない・・・。あぁ浪費がまた繰り返される。
2003.06.15

■どっち?

喘息になるからタバコをやめろと医者に言われ、それに素直に従いタバコを吸わなくなってから約一ヶ月が経とうとしています。びっくりした?これまで特に禁断症状も無く、いわゆる「禁煙」としては順調な方ではないでしょうか?が、もう絶対吸いたく無いかと言うと、そうでもなくって時々は吸いたくなります。人が吸っているのを見て、吸いたい衝動に駆られる。というわけではなくって、どちらかと言うと自分のタイミングで吸いたくなります。何か根を詰めてやっていたことが一区切りついたときなどそれこそ「一服」したくなります。それでも、「吸わなくても大丈夫」なのが今の状態です。やや先行き不安ですが少なくとも積極的に吸いたいとは思いませんので、なんとかこのまま行きそうです。まあ、タバコなんて吸わないで済むのならその方が良いんだろうけど・・・。

さて、吸わなくなって何かが変わったか?空気がうまい?飯がうまい?息切れがしなくなった?・・・特に実感していません。が、確実に変わった事が一つ。
・・・太りました。
そりゃもう見るも無残ですよあなた。このお腹周りの肉。原因は明らかです。間食が増えたせいです。今までタバコを吸うことで費やしていた時間がそっくり空いたわけで、手持ち無沙汰と口寂しさでついジュースやお菓子に走ってしまった結果以外のなにものでもありません。間食という行為がこんなにも短期間で覿面に効果があるとは今まで知りませんでした。このままでは育つ一方です。なんとかせねばまずいです。ホントに。(^^ゞ

で、ここで問題。間食しないですむようにタバコを吸い続け喘息になるのと、タバコをやめて喘息にならない代わりに脂肪を腹に貯め込み、履けなくなったズボンとニラメッコ。さあ、あなたならどっち!?
2003.05.25

■意外な発見?

考え事をしながら、カフェオレを作ろうとして、牛乳の代わりに飲むヨーグルトでコーヒーを割ってしまいました。・・・。痛恨です。試しに一口飲んで見ましたが、飲めたもんじゃありませんでした。別々ならどちらもおいしくいただけるのに、間違ったブレンドはそのまま捨てるに等しい行為です。・・・気をつけよう。最近多いな〜、こういうの。やばい?
2003.05.24

■笑って・・・

最近、許せなくなって来ました。きっかけは、共通するあるひとつの事柄に立て続けに出くわしたから。
その出来事は「横入り」、またの名を「割り込み」といいますが、コレを全く関連性のない複数の人達から何故か繰り返し繰り返しやられるのです。別に、そんなの気にしなきゃいいんですけど。ただ、それをするのがいわゆる「おばちゃん」達だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんだったり、普通のお父さんだったりするわけですよ。しかも、状況がほぼ等しく、私が何かの列に並んでる横から列に加わり、「この人どうするのかな〜」と思っていると、私の順番のところで、突然割り込んで来るのです。みんながみんな。???何か私がいけない事をしているのでしょうか?しかも、この割り込んで来た人達、明らかに「列に気がつかなかった」風を装ってるのがミエミエで、後姿で私の様子を伺っているのがハッキリと見て取れます。それが余計にハラたつのです。でも、相手はおじぃやおばぁ。腹立てて怒ったりしたらこっちが逆に悪者になりかねない。それまでも計算ずくの様な気がして余計むかつく。親が親なら子供たちも平気で同じ事をするからこれは、この土地の人間性なのでしょうかね?結構、割り込みが原因と思われる諍いを目にすることがあります。いやだいやだ。
少なくとも東京等では並ぶことが習慣になっているので、それなりのルールが出来ていて、いやな思いをする事もあまりなかったですし、海外などでは、もっと普通に譲り合いの精神が根付いているように思います。
何処に住んでてもあることですが、これほど毎回あるといやになってきます。スーパーのレジ等に並ぶのも嫌になってきます。我先にと列に加わってくる人たちを見ていると悲しくすらなって来ます。こんなことにハラを立ててる自分もいやになってきますが、果たして後何回キレずにやり過ごせるだろうか?我慢する自信ないな〜。今度やられたら足でも引っ掛けてやろうか。・・・いかんいかん、心が荒んで行く。
2003.05.11

■ななこ

菜々子のお茶のCM大好きです。あの空気感、最高です。菜々子だからこそ成立する面白さにあふれていると思います。CM企画した人を褒めてあげたい。そして、出来れば私もぜひ蹴っ飛ばしてもらいたい。・・・でも、最近のオンエアーではまさにあの「ケリ」が炸裂するシーン、カットされてますね。きっと苦情を申し入れた団体があるのでしょう。やれ、子供が真似したら危ないとか、子供の教育上良くないとかそんなところだと思われます。カットしたらそれでいいのか?カットしたって真似するやつは真似するし、カットしなくったってやらないやつはやらないんだから。そんなもん、自分が自分の子供に真似するなと教えればいいんであって映像をカットすれば良しとする根性が全く持って気に入らん。それよりも、あのシーンがあってこそあのCM全体が完成度を持っているのに、なぜあれをカットしろといえるのか?その感覚がわからん。
私が子供の頃は滑り台で友達を蹴っ飛ばすなんて日常茶飯事でお互いにけってけられて、超えてはいけないある一線を学んでいった物なのに・・・。そんなことすら最近の子供たちは学べないのでしょうか?寂しい限りです。そしてあのCMをひとつのユーモアとして捉えられない大人達も情けない。過剰反応だよね。
あのシーンをカットしろと騒いだやつこそ私が蹴っ飛ばしてやりたい。・・・って、こっちの方が過剰反応?
2003.04.09

■Run'n'fun!!

遅ればせながらこのHPの題名について。まあ、改めて語るまでもなくそのまんまの意味なんですけど。とりあえず、どこかで一回くらいは触れておこうかと・・・。まず、読み方は「ラン・アン・ファン」。・・・誰でもわかるってか?この題名はHPを作ろうと思ってからずっと決めていたのです。我が愛車達の特徴をを端的に表し、かつ語感を楽しめる題名にしたいな〜と思っていたので、以前オーストラリアに行ったときに見て頭に焼き付いていたコピーをパクリました^^。パクったのは「sun'n'fun」。非常にオーストラリアらしくって良いコピーですよね。そして、それと同じくらい「Run'n'fun」も良いコピーだと思います(自画自賛^^)。車がどんどん進化し、本来の楽しみである走る楽しみよりも快適に移動できる空間としての価値が問われてきている中、ハンドルを握り、純粋に「走る」楽しさを与えてくれる206。目を三角にしなくても峠を楽しく走れ、退屈な道でもパルス感を楽しめる、そして何よりエンジン全域を使いきれる等身大の素晴らしいバイクであるTDM。さらに、どちらも非常に個性的なスタイルを持ち「眺める」楽しみも与えてくれます。それらの超主観的な思いの数々をひっくるめて、この「Run'n'fun」という題名を掲げました。・・・とまあ、何のひねりも無いんですけどね。私の思う「楽しさ」がこのHPを通じて皆さんに少しでも伝わるといいんですけどね。
2003.03.31

■春の予感?

日一日と春が近づいて来ています。我々ライダーも春の訪れにかなり敏感な方だと思いますが、今回はそれにも増して敏感な人々のお話・・・。
ちょっと暖かくなったとある日、仕事が遅くなり夕飯を仕入れようと寄ったコンビニに彼らは居ました。冬場はさすがに冬眠していたであろう彼らの存在をすっかり忘れていたので、出くわしたときにはさすがに一瞬ひるんでしまいました。
そう、彼らとは、「ヤンキー」です。我が物顔で店の前に座り込んみ、何が楽しいんだかちいとも理解できない話題で盛り上がっている彼らに、私は一瞬ひるんでしまったのです。そして、こう思ったのです。「そうか、もうそんな季節か・・・。」そうなのです。彼らこそ春の訪れを誰よりも先に肌で感じ。その喜びをからだいっぱいに表現している人々なのです。家の近所のコンビニでも夏ともなればそれこそ毎日がお祭り騒ぎです。店の内外を問わず駆けずり回り、奇声を発し、仲間たちと人生の春を謳歌しているのです。ある意味うらやましくもありますね。出来れば一度聞いてみたい。「君たち何がそんなに楽しいの?」と。でも、そんなことを本当にやったらボコボコにされてしまうので出来ないけど^^。腹が減ればお菓子があり、喉が渇けばジュースがある。彼らにとってコンビにはまさに至れり尽くせりの場所。そんな店の前の広いスペースは彼らの憩いの場所なのでしょう。今日も彼らは周囲の目を気にする素振りなど微塵も見せず。ちょ〜楽しそうに騒いでいます。
そんな彼らを思いがけず見かけ、春の訪れを感じた今日この頃。
2003.03.23

■一瞬の刹那

今日、それこそ何十年ぶりかで、氷に足を取られてひっくり返りました。何の抵抗も出来ず、ただただ地球誕生以来そこにあり続ける物理的法則に従ってきれいにひっくり返りました。もう少し詳しく説明すると、朝、頭が完全に起き切っていない状態でゴミを出しに外に出た時のこと、我がアパートは、玄関を出て通路を歩ききった左側にゴミ置き場があるのですが、そこに至る少し手前に一段ばかりの階段があるのです。左側のゴミ置き場に向かって身体をひねりつつ左足から階段を降りた瞬間、それはやってきました。みごとな出足払いです。あまりの突然のことで、声を上げることすら出来ませんでした。左手にゴミ袋を持ったまま、私はほんの一瞬中を浮き、横倒しになったまま地面を数十センチすべりました。自分に起こった出来事を全て悟った後、次にやってくる恥ずかしさと切なさを受け止め、そして起き上がりつつ自責の念と一人戦ったのでした。
こんなになす術もなくひっくり返ったのは本当に久しぶりでした。ちょっと思い出せないくらいです。高校生のとき、急に降り出した雨で濡れたマンホールの上でバイク共々ひっくり返った時も抵抗した記憶があるし、中学生のときプールサイドを走っていて滑って転んだ時だって、多少なりとも受身を準備することはできていました。恐らく、小学生や幼稚園の頃まで遡らないと同じような経験は浮かび上がってこないのではないでしょうか?そう思えば、今日の出来事は非常に貴重な体験であったと思います。
ところで、あれほどハデにひっくり返った割には打ち身やケガはありませんでした。自覚している範囲では目撃者もいなかったことで、心の傷も最小限で済みました。下手に受身なんかを取ろうとしなかった(出来なかったんだけど^^)のが良かったのでしょうか?う〜ん、これはひとつの教訓ですね。つまり、自分に降りかかってくる様々な出来事に対し、下手に抗うことなく、流れに身を任せていけば、大きなケガをせずに済むということですよ、これは。きっと。うん、そうに違いない。よし、明日からもなんにも考えず流れに身を任せ、ぬるぬる人生をまっとうしよう。
2003.02.25

■ブリティッシュ・ジョーク?

同音異義語の少ない英語では日本で言う「駄洒落」の様な言葉遊びをすることは出来ません。ストーリー仕立てで最後にオチをつける手法が使われます。俗に言うアメリカンジョークですね。日本では落語がそれに当たるでしょうか。英語がろくに出来ない私は、アメリカンジョークで笑ったためしがありません。何が面白かったのかがわからないのです。
で、今回は先日一緒に日光に行ったイギリス人のTimのお話し。彼は、見るからにまじめ。普段は大人しくて、決して陽気とは表現されないタイプ。ほっときゃ日本のガイドブックを熱心に読みふけっているのです。車の中でも特に自分から話を始めることもなく、景色を眺めているばかり。本国では、開発ではなく、いわゆる研究所で働いています。そんな彼に、車を運転していた私の上司が訪ねました。「研究所では、何人くらいが働いているの?(How many peoples are working ?)」と。すると、彼は一瞬考えて、まじめな顔でこう答えました。「Half」と。・・・?ハーフ?我々が理解できずに首をかしげ黙り込むと。かれは、あわてて、「Just joke」と付け加えました。
・・・!その瞬間、私は彼の言った内容を理解し、笑いが止まらなくなってしまいました。思いっきりツボにハマってしまったのです。笑い転げている我々を見て、彼は困ったようなうれしいような表情を浮かべ、あわてて言い訳を始めました。
彼のジョークわかりました?そう、我々が「何人くらいが働いているの?」と聞いたことに対して、彼は「半分」と答えたのです。つまり、いる人間の半分くらいしか働いていない。ということです。
いや〜、笑いましたね。彼のキャラクターからは到底予想できない答えだったので、余計に面白かったんだと思います。こんなにツボにハマったのは久しぶりでした。私も常々、こんなスマートな(?)ジョークが言える人間でありたいと思っています。Timとはぜひ友達になりたいですね。
そんなTimは魚介類が大の苦手。夕飯の海鮮中華で魚介類が出てくる度に頭を抱え、「食べられない〜」と苦しんでいました。我々はお腹一杯になったけど、Timは足りなかったよね。夜食に何を食べたんだろ?
2003.02.17

■においと記憶

バイクで走っていると、においに非常に敏感になります。車と違って常に外気と触れているからでしょうか。海辺の潮のにおい、雨上がりの湿った草のにおい、はたまた車の排気ガス・・・。四季それぞれにも特徴的なにおいがあります。それなりの速度で走っていてヘルメットを被っていても、きちんとにおいは届いてくるのです。で、そんなにおいと記憶のお話。
どこかを走っていてヘルメットの中ににおいが入ってきた瞬間、今まで忘れていた記憶が突然よみがえることが良くあります。多くはどこかを走っていた時の記憶ですが、その瞬間が鮮やかに蘇って来ます。そして、それをきっかけに、付随する記憶が堰を切ったように次々と溢れてきて一瞬自分の中で処理できなくなってしまいます。何かを考えていてもそれを中断して割り込んで来るので、においと記憶のつながりの強さを認識せざるを得ません。
私の場合、そのほとんどの記憶は、バイクに乗るようになって初めて一人で行ったツーリングとオーストラリアをツーリングしていた時の記憶ですから、初めて体感した時の景色や状況がにおいと一緒に記憶のどこかに格納されているのでしょう。これは恐らく、今後よっぽどの体験をそのにおいと一緒にすることがなければ、決して上書きされることもなく、半永久的に保存され続けるに違いありません。
これらの記憶は、海辺の緩やかなワインディングだったり、ただただ真っ直ぐな道だったり、どこかを走っている状況ばかりですから、無意識のうちに脳が記憶として刻み込んでいると思われます。その時に、自分がそのにおいを感じていることは本人もきっと意識していなかったはずです。時としてこのような記憶の洪水にみまわれていると、初めてのソロやオーストラリアを走ったことが、しっかりと自分の中に根付いているのだな〜と気付かされます。きっと、この記憶がこれからも私の根っこであり続けるのでしょう。
ただ、これらの記憶は意識して思い出そうとしてもなぜか思い出せません。付随して蘇ってくる記憶はいくつか拾い出すことが出来ても、きっかけとなる記憶は、においが伴って初めて記憶として呼び起こされるみたいです。なので、こいつらは唐突にやってきて、頭の中を駆け巡り、あっという間にどこかへ消えてしまいます。
これはバイクに乗っているときに限った現象ではないので、結構いろんな状況でいろんな記憶の洪水にみまわれています。みんなもそうでしょ?ですから、一緒に走っている時に私が突然、あたりをキョロキョロしたり、ヘルメットを縦に振って妙にひとりごちていたりしても、心配しないで下さい。突然襲って来た記憶を、なんとか処理しようとしている行動なのですから。・・・きっと^^。
2003.02.09

■トイレとヘルメット

何年か前、恐らくバイク雑誌だったと思いますが、コラムのようなページを読んでいたとき、とある一説に目が留まりました。「人が等しく公平に持っている誰にも邪魔されずに物思いに浸れる場所。それがトイレである。」なるほど。「そして、我々ライダーはそれに加えてヘルメットを被っている時、即ちバイクで走っている時にもその時間を手に入れる事が出来る幸運な人種である。」なるほどなるほど。確かにそうだ。自分も走っている時いろんな事を考えています。
もちろん峠を走っている時はあんまりいろんな事を考えている余裕はないですが、ダラダラと続く田舎道なんか流しているときは、ふと気が付くと自分でもびっくりするくらい突拍子もないことを考えていたりします。その点で、北海道なんかは物思いにふけるのに最適な場所かもしれません。私も、ある意味、目的もなく走り続ける事が目的で北海道に行っているようなもんです。ひょっとすると繰り返し繰り返し、毎年のように北海道を目指すのは、無意識のうちに考える時間を求めているからなのかもしれません。
日常とは全く接点のないところをひたすら走り続ける。最初は鼻歌なんか歌っていますが、そのうち意識がどこか違うところへ飛んで行き、はっと気が付くと全く連続性のないことを考えていたりします。客観的に考えるととっても危ない行為ですが、完全に意識が飛んでいるわけではないので、車で携帯を使っているのに比べればはるかに安全だとは思いますが・・・。これ、ちょっと違うかもしれないけどマラソンなどでよく言われているランナーズハイみたいな状態に近いんでしょうかね?

ある程度規則的な音や振動、景色の変化等の刺激が続くと人間の脳は違った働きを始めるのでしょうか?謎は深まるばかりです。でもね、これってかなり面白い現象だと思うのです。だって、同じ自分だけの世界を確保できる状況であっても、この両者、物思いにふける中身の「種類」が全然違うと思います。狭い空間で静かに座っていられるトイレでは、ある程度現実的な事を考えますが、ヘルメットの中では現実とはかけ離れたことばっかりが頭にうかんできますから(私だけか?)。とすると、ヘルメットを被りながらトイレに入るとどうなるのか?・・・苦しくって用もたせませんわな。
2003.02.08

■泣き虫

私すぐ泣きます。喜怒哀楽の全ての感情が涙腺に直結してます。全ての感情の起伏が、ある一線を超えると言葉よりも先に涙が出てきます。しかもその一線が非常に低いところにあって、ちょっとしたことで涙腺が緩みます。テレビや映画はティッシュ必須。小説なんかも涙無しには読めません。ちょっと頭にきたことがあったり、悔しいことがあってもすぐ涙が出てきます。おかげで言い争いになったりすることはあまりありませんが・・・。人に優しくされたりなんかしたらイチコロです。涙が止まらなくなってしまいます。あんまりドライなのもどうかと思いますが、こうも涙もろいと自分でも困ってしまいます。どう感情をコントロールしようとしても、この部分は自分の制御範囲に入っていないようです。でもまあ、考えようによってはどんなことにも素直に感情を表しているわけだから良しとしますかね。
でも、もうちょっと掘り下げて考えて見ると、次のような方程式が成り立つわけです。
ヒューマンドラマ見る→感動する→泣く。
理不尽なことを言われる→頭にくる→泣く。
何かを達成する→喜ぶ→泣く。
・・・う〜ん、全てがココに集約される訳だ。なんと単純な。でも、これを読んだあなた。もし私が泣いている場面に遭遇したら、それなりの感情の経路をたどった結果としてのアウトプットが涙であることを覚えておいて下さいね。そして、暖かく見守って下さい^^。あ、そうそう、そんな私を見てオージーが暖かい笑顔とともにミドルネームを送ってくれました。送り主は、バイクが壊れて困っている私を拾ってくれ、直るまでの1ヶ月と少しの間、私を家に置いてくれました。出発を数日後に控え、お礼を言おうとした時にやっぱり涙が溢れてきました。そんな私を見て暖かい笑顔と一緒にこの名前をくれました。“sookybaby”(泣き虫)・・・気に入ってます。
2003.02.06

■十年ひと昔

lotのDMが来て、考えてみたらオーストラリアに行ってから10年が過ぎていました。私がオーストラリアをツーリングしたのは、1992〜93年。約1年滞在し、10年前のちょうど今頃帰国でした。よく十年ひと昔と言いますが、渡豪を起点にした10年を振り返ってみると生活環境の変化からケガや病気など色々な出来事がありました。
・・・ホント、色々(笑)。良くも悪くも自分の価値観みたいなものも大きく変わった10年だったと思います。「ひと昔」と一言で括るにはあまりに密度が濃い時間でした。20代前半から30代前半にかけての10年だったので、普通、それなりに色々あるのでしょうね。で、ふと思ったのが、ココから先の10年が、果たして同じような密度の10年になるのかな?ということ。多分違うでしょうね。でも、10年後に振り返った時、充実した10年だったと思えるような時間を過ごして行きたいものです。
10年前、今の自分を想像することなんて出来もしなかったけど、少なくともバイクは乗り続けていると思っていたし、これからもやめるつもりは全くないので、多分10年後も乗ってるでしょう。コレだけは自信あります。未だに考えることは全てバイク中心だし・・・。バイクで走ってみたい所は山ほどあるし、叶うのならいつかは「家付き」のガレージも欲しい。身に着けているものもみ〜んなバイクに乗る事を前程にしたもの。多分一生やってるんでしょう。・・・病気ですね^^。でも、私の周りもみんなそんな人たちばっかりだから、結構普通なんですけどね。
そういや、バイク乗りって「バイク気違い」って言われるとなんで喜ぶんですかね?
おかしな人種だ。そんな人種であり続けていることがちょっとうれしい今日この頃。
2003.02.03

■本屋

私は本屋に長居ができません。別に本が嫌いとか、座り込んでまで立ち読み?している連中を視界に入れるのが嫌いとかそういう理由ではありません。むしろ、出来れば色々と物色して面白そうな本を探しあてたいという気持ちすら持っているのです。許されるなら一日中居ても良いとまで思います(・・・これは言いすぎ)。しかし、それが出来ないのです。大抵の場合、数分から10分程度で出てきてしまいます。何故なら、・・・もようしてしまうのです。大きい方を。予め用を済ませておいても、何故か本屋に入るともようしてしまうのです。必ず。印刷物のインクの匂いがそうさせるという俗説を耳にすることもありますが、果たして本当なのでしょうか?だとしたら私は印刷・出版業界では働けません。こういう話をすると、たまに俺もそうだ!とか私も!という人たちに出会うことがありますが、果たして世の中には同じ経験を味わっている人々がいったいどれほどいるのでしょうか?一度統計をとってもらいたいものです。きっとネットを探してみればそんなことを大真面目で取り扱っているサイトもあることでしょう。ただ、そこまでして調べるつもりもないですけどね。今日も本屋に行ってすぐに帰ってきてしまって、ふとそう思っただけのことです。
2003.02.02

■義務と責務

先日、近所のレンタルビデオ屋に行ったとき、借りたいビデオをレジに持って行くと、どうやら何かしらのキャンペーンをやっているらしく、バイトと思わしきあんちゃんが紙切れを持ってボソボソと何かをしゃべり始めました。あんちゃんは一生懸命暗記したであろう台詞を私にではなく、その紙に向かって消え入りそうな声で唱えています。それも、面倒くさそうに。結局、なに喋ってんだか全然聞き取れませんでした。渡された紙切れを読んで、キャンペーンの内容は理解しましたが、結局あんちゃんの説明は何の役にも立ちませんでした。気の小さい性格なのかと思ったら、直後に店員同志で大声で盛り上がってました。
で、何が言いたいのかといえば、このあんちゃんは、店員としてお客さんにコレを説明しなさいと言われた事に対する義務は一応果たしたのです。台詞を喋ったのですから。もし、怒られても、雇い主には言い訳ができるわけです。「ちゃんと言いました。」と。でも、内容をお客さんに伝えるという責務は果たしていなかったという事です。
店から出た後、そう思い、自分はきちんと義務と責務を理解し、責務を果たしているかな?などと考えてしまいました。何に対してか?と問われれば、何に対してだろう?と逆に問いたくなりますが、少なくとも、自分の伝えたい事はしっかりと相手に伝える努力をしなければと思いました。これ、伝わってる?
2003.02.02

■刺激

足ツボとか、激辛とかではありません。日常生活における体感的な刺激が、最近めっきり少なくなりました。毎日、車で家と会社を行き来し、ほぼ決まった顔を見て生活していると、自分の感受性が鈍くなってしまっているのでは?と感じる事が良くあります。なので、たまに都内などに行くと刺激を受けまくってしまいます。満員電車の人いきれ、つり革広告にさえ新鮮な感動を覚えます。ちょっと前までは当たり前だった風景が当たり前ではない風景として目に飛び込んできます。それに感動していることにすら感動してしまいます。そうすると、終電間際の電車の中でお手本通りに酔っ払っているオヤジ達をみると、なぜか微笑ましく思ってしまいます。だって、普段見れないんだもの。頑張れオヤジ!とエールまで送ってあげたくなります。

何をもって刺激とするかは人それぞれですが、私は目の前に転がっている新鮮なネタにきちんと気づける様でありたいと思っています。このHPを立ち上げたのもそんな理由から。マンネリをマンネリとして受け止めてはいかんのです。
とにかくバイクに乗っているだけで楽しかった頃は、あっちこっちに行き、色んな人と触れ合うことで色んな刺激を受けていたんだな〜と今更ながら思い出します。最近バイクで出かけることがめっきり減ってしまいました。日記にも書きましたが、コレではいかんのです。しかも、ただ乗るだけではダメなのです。やはり、一人旅に出なくてはならんのです。大勢で走るのも楽しいけど、一人もまた違った楽しさがあります。一人旅こそ私にとってのバイクの原点なのです。やっぱりそろそろ原点に戻らなくては・・・。
この辺はまたそのうち触れるとします。(いらない?)
2003.02.02


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