東京・宇都宮を結ぶ空襲の記憶 (証言 1)


東京空襲の記憶   寄稿=桑久保(旧姓 星)光子
              家族 父(警察官)母 姉(女学生)私
              住所 東京都本所区(現墨田区)緑町二丁目十六番地
              昭和十四年四月緑國民学校入学「ガラスのうさぎ」の著者 
              高木敏子さんと同級生


 大東亜戦争が激しくなり、六年生の一学期頃。私たちは、縁故疎開又は集団疎開することになった。私たちは、集団疎開で千葉県香取郡神代村(現東昭町)のお寺らで勉強するようになった。
 二十年三月。私は、卒業と女学校の受験を控えて、空襲の一週間ぐらい前に疎開先から本所の実家に戻った。
 三月九日の夜中に出た警戒警報は、十日未明に空襲警報に変わり街中に鳴り響いた。上空を見上げるとB29の編隊が見えた。もう本所の町は、焼夷弾で火の海となっていた。
 私は、母と姉の三人で何も持たずに外に出て、防空頭巾を防火用水で濡らし火の中を逃げまわった。
 「亀沢町の方へ」と誰かの声がしたので、逃げまどう人にもまれながら総武線の鉄橋にたどり着いた。そこから見た光景は、街が火の海となり建物が真っ赤に燃えていた。この光景は、今でも脳裏に焼き付いている。
 私たち母子三人は、奇跡的にもやけど一つしないで助かり、そこで一夜を過ごした。父とは離ればなれになったので、敵機が去った十日の夜明けから父を捜しに行った。やっとあえた時、父は人を助けようとし鉄カブトが顔にあたり大やけどをしていた。
 母が、両国病院に父を連れて行ったが、そこには「やけどをした人たちが大勢いて、医薬品もなく、ほとんどの人が手当もしてもらえない」状態だそうです。
 夜が明けてから私と姉は、焼け野原になったところを通って緑小学校に行ってみた。
 そこには、空襲にあった人たちが集まってきていたが、友達や街の人の多くがやけどをしていて、とても悲惨な状態が目に入ってきた。学校に行くまでの間にも、多くの人たちが亡くなり真っ黒こげになって、道路におかれていた。
 三月十日の空襲では、隣組の人の中には、一家全滅の家。家族が犠牲になった人たちがたくさんいた。また、警察官や消防署員。その他の男の人たちは何かと任務があるため家族と別行動をとらなくてはならず、父の同僚の警察官のなかには、家族が行方不明になったり、亡くなった方が大勢いたと聞かされた。私たち一家は、誰も犠牲になることなく助かったことは本当に奇跡だったと思った。
 やけどを負った父は、治療をするために宇都宮の母の実家に身を寄せることになった。少し遅れて、私と姉も宇都宮に来た。そこで数日間過ごし、父の実家から伯父が迎えにきてくれたので、治療をしていた父と母を残し、一足先に父の実家である宮城(登米郡南方町=現・登米市)に疎開した。