白木博次先生追悼原稿

                   報徳会 宇都宮病院 元院長  石川文之進

 昭和三十六年に私は研究生として、秋元波留夫教授の東大精神科教室に入局させていただきましたが、さすがに大学精神医学と感心したのは、症例検討会において脳病理解剖に基づいて病因究明するということでした。とりわけ心酔したのは脳病理学の白木博次教授で、その学殖と探求にはほとほと感じ入ったというほかはありませんでした。そこで、私は及ばずながら自分の病院でもおなじ探求心をもって患者に尽くそうと考え、諸大学から俊英を招き、精密な症例検討を心がけました。後に白木教授より「民間病院でありながら、診断に衆知を集め、亡くなった患者については脳解剖をして診断治療の是非を確認しているのは天晴れ」と褒めていただいたときは、面はゆくも有り難く感じたものです。白木教授は「これだけのことは大学でもやってないところがある」と仰せでした。私はまさかと思って聞いていましたが、その後、症例検討に来て下ださった若い方々から、実に数十人の教授が誕生しましたので、今となっては白木教授のお言葉も、あるいは単なる社交辞令ではなかったかもしれないという気がしないでもありません。それはさておき、白木教授は「精神分裂病が思春期に発病し荒廃に至る病気であるからには、、思春期のミエリン形成が関係しているに違いない」とたびたび言っておられました。Gaucher病のような病気では、乳児型(急性神経障害型infantile or acute neuropathic type、若年性(亜急性神経障害型juvenile r subacute neuropathic type、成人型(慢性非神経障害型adult or chronic nonneuropathic type)の三型があり、脳の成熟ミエリン形成状態の違いに応じて、異なる症状が発現をするから、これをモデルに分裂病も考えるべきだと。特に前頭領は髄鞘形成が一番遅いから。近年、分裂病遺伝子が判明しつつあることを考えると、あるいは何時の日にか白木理論が証明される時がくる様な気もします。

 白木教授は大学紛争でただお一人辞職されました。私は大学の損失を憂えましたが、我が病院にとっては好機と思い、教授に月二回一泊二日でお越し頂けるようお願いをし、教授も快く承知してくださいました。教授の大論文「神経病理学の存在意義−精神神経疾患群のetiopathogenesisの解明と臨床・病理相関性の確立に対する神経病理学の貢献度を中心に」(現代精神医学大系十九A中山書店)はそのときの成果です。

 美濃部都知事に相談を受けて、白木教授が都立の研究所三ヶ所設立に関与されておられることも、病院の昼食時に伺ったことです。その構想に私が、経済的基盤を考えると将来性がないのではないかと意見を申しますと、教授は「そんなことは俺の知ったことか」と言われました。確かに、膨大な税金を注ぎ込んで立派な研究所ができましたが、後に都のお荷物となったと聞いています。大学者は、やはり経営には向かない、と言うのが私の結論ですが、喧嘩を売るにも教授はすでに他界され、寂しいこと極まりません。

 口喧嘩と言えば、わが娘婿原田勝二筑波大学教授がアセトアルデヒド分解酵素の研究によりアルコール症の謎を解いたと自慢したところ、白木教授は「そんな簡単なものじゃない」と聞く耳持たずでした。しかし、これも結局は私の勝ちだったわけで、私は原田の結果を応用して自分なりの治療研究を行い、先年、大部の『アルコール症』にまとめましたが、白木教授にお見せできなかったのが残念です。もっとも、教授なら「ふん、素人研究」とおっしゃったでしょうが。

 白木教授とは喧嘩ばかりしていたわけではありません。秋元教授や草間教授、井上教授、笠松教授も交えて、毎年日光カントリーでゴルフを行うことにしておりました。それぞれの教授はご専門の違い同様ゴルフの仕方も異なっておられました。白木教授のは、左右は問わず二五〇ヤード飛ばす豪快なもので、私はいつも「土建屋ゴルフ」とからかっておりました。

 このように思い出をかいておりますと、懐かしさがわき上がってきます。ただひとつ、私に悔いが残るのは、私が宇都宮病院事件を起こして、先生にも多大なご迷惑をおかけしたことで、返す返すも無念なことでございます。白木教授憮然、止む無し。